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作品名:クロード・レヴィに捧げる弾丸 作者:葦原瑞穂

第11回 彼らの街の最後の夜
 饐え切った生ごみみたいな口臭が浮遊している。

 吐き気を感じるが、男も女もみんなして平気な顔で騒いでいる。
 街の大気は人いきれの沈殿した地面付近を滞留する不快な風にゆっくりとかき混ぜられている。

 天空には涼やかで清潔な夜空に無垢な光を放つ星々が浮かんでいる。
 上に行くほど澄んだ清浄な空気にありつけるわけだが、上空のビルの一室は、貧民には到底手が出ない。

 かつてはこの街も、アジアナンバーワンの都市だった。
 金が流れ込み、世界中から若者が押し寄せ、最先端の歓楽を貪っていた。

 今では、さびれてうらぶれて、体臭の際立ち始めた中年どもばかりが集まり、まだ肉体の清潔な若者たちはほとんど近づかない。

 細胞が死んで毛穴に詰まったまま腐り始め、腐臭を発する。
 アルコールとヤニの混じった息を吐き散らしながら、しなびた背広姿の男たちが前時代的なドレスを着て髪を盛り付けた中年の飲み屋女に下卑た笑みを引っかけている。

 「ガールズバーいかがですかァ。二時間飲み放題で三千円ですよ〜」

 「マジ? マジ二時間で三千円? カラオケは? カラオケカラオケカラ――」

 「お兄サン、中国パブ中国パブ――」

 「どうする? 二件目いく? それともラーメン?」

 「完全前金制〜」

 「ねえ、ここらへん風俗あんの?」

 「ナニガイイノ? ナンデモしょーかいスルヨ?」

 突然、ほとんど歩行者天国状態だった狭い通りに一台の二トントラックが突っ込んでくる。

 甲高い叫び声と、頭からすり潰された人間の奇妙な声。
 ガラスの割音。
 怒号。
 だいじょぶかっ!?
 おい、何やってんだよ!
 なんだよこの車!
 救急車! 救急車!
 やだー!
 おい静かにしろよ!
 早く救急車!
 誰か一一九番電話して〜! 

 俄かな静寂。

 路面に頭を引きずられた男の血文字が一直線に描かれている。
 うつぶせた男の頭部は半分くらいの薄さになっている。
 顔面は目も鼻も口も削り取られているようだが、幸いにして人々の目には後頭部しか映らない。
 短髪で、少し白髪が混じっている。
 スーツはタイトで、やはり昔の都会的なサラリーマンのイメージのまま、年を重ねて古びている。
 バッグはヴィトン。
 三十後半から、四十半ばといったところだ。
 顔はなくなってしまったので分からない。

 運転席から黒いジャージの上下を着た男が降りてきた。
 やはり三十後半くらい。
 小太りで、ヤニに濡れた髪を頬に貼り付けて、薄ら笑いを浮かべている。
 何かに気づいた人々から悲鳴が上がる。
 スタンガン! スタンガン!
 轢かれた男の傍らで、善人ぶった無意味な声掛けをしていた男に背後から近づいていく。
 危ない! キチガイだ! おいお前! 逃げろって! 

 ふり向いた男の喉元に、スタンガンが押し込まれる。
 濃いタンが絡んだような汚らしい叫び声を上げながら男が電流のはりつけになる。
 別の女の悲鳴。
 警察! 誰かー!

 トラックと痙攣する男と顔を削られた死体から、人が一斉に散らばっていく。
 ほとんどの人間がその場から逃げようとする。
 何人かは固まったまま動けずにいる。

 それほど離れていない場所では、騒動に気づいていない居酒屋の客引きが、サラリーマン連れに執拗に食い下がっている。
 目の前のビルの二階では、無許可の風俗店が、外の騒ぎにようやく気付き、客室の電気を落としている。

 まさか、手入れ?
 女の上で、禿げの男が全身を硬直させて耳をそばだてている。
 大丈夫、でもちょっと静かにしてて。
 男は、すぐにでも逃げ出したかったが、部屋が完全に真っ暗で畳んだ服の場所も分からない。

 喉元のスタンガンが外れた後も、男の身体は痙攣をやめない。
 薄ら笑い。
 ジャージの男は周囲を見回す。
 遠巻きの人込み。
 臭いは滞留して、相変わらず地面付近をゆっくりと流れ、ジャージの男の足もとから身体を舐めるように立ち昇り、男の薄ら笑いが歪む。

 ふいに、誰かが短い叫び声を上げる。

 ジャージの男は叫んだ女を見る。
 だが、女は男を見ていない。
 男を通り越したその背後を見ている。
 視線に促されるままに、男は後ろを振り向く。

 制服を着た、中学生くらいの少女が、男の脇腹にナイフを突き立てていた。

 小さな果物ナイフが、右の肋骨の下、肝臓の正確な場所に根元まで刺さっていた。
 少女は髪を二つに縛り、リュックを背負っている。
 スポーツシューズをはいて、メガネをかけ、顔は幼く化粧気もない。

 ジャージの男がゆらりと少女を向き、スタンガンを振り上げようとした瞬間、少女は無表情にナイフを抜いた。
 肝臓から鮮やかなピンクの血が噴き出した。
 スタンガンは空を切り、男は芯が抜けたように二、三度踊るようにたたらを踏んだ後で、地面に倒れた。
 スタンガンが地面を転がり、トラックのタイヤにぶつかって止まった。


 それが、この街の最後の夜だった。


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