小説&まんが投稿
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:星を道標に  \ オーバーカム 作者:ナナセ

第8回 試練のスタジアム W 前編
                 

                〜 試練のスタジアム W 前編 〜



 甲子園に容赦なく照り付けていた日差しは、もう気にならないほどに和らぎ、スタジアムに吹く風もようやく心地よくなってきたというのに、手の平には汗がじっとり滲んでいる。
 気持ちのいいものではない、紛れもなく嫌な汗だ。

 山崎の気遣いに応えたわけではないが、ロージンバッグを掴み、入念にはたいた。
 白い粉が風に散っていくのを、懐かしいような……デジャビュにも似た気分で、目の端に捉えた。

 妙に頭が冴えている。
 想定外の展開に、驚きも緊張感も使い果たしてしまったせいだろうか。
 大きく深呼吸して、今の状況を再度頭に入れ直す、ピッチャーの立場で。

 1アウト満塁、バッターは一番の左打者。
 山崎が、一球様子見のボール球を要求するのに、いきなり首を振った。
 相手の一番はこの試合四打席の内、二打席は完璧にジャストミートしている。この場面でも恐らくヒッティングしてくるはずだ。
 だが、初球は手を出さない。なんせショートの俺が投げるなんて思いもしてなかったろうから、普通ならどんな球種を投げるのか、後続の為に探りを入れる。確信を持ってそう言い切れる。
 だから、ストライクを先行させる。膝下一杯、今日だけのストライクコースだ。

 マスクを被ったまま暫し逡巡した山崎が、サインを出した指を隠し、了承の合図にパンッとミットを鳴らした。このバッターは俺に任せる事にしたようだ。
 構えたところはストライクど真ん中。俺の意図する球筋とは違うが、奴なら少々逸れても楽に受けてくれる。

 小さく頷いてセットポジションで投球モーションに入る。
 スクイズの可能性は無視して、決めた一点に向かい腕をしならせた。
 望み通り低めに行ったボールを、山崎がミットを動かして悠々受け止める。
 審判のストライクの判定を聞き、狙ったコースに球が行った事にほっとして、返球を受けた。

 俺の球速でストレート真ん中は危険すぎる。だが、審判だって人間だ。際どいコースになれば迷う事もある。その微妙なコントロールは今の俺には無理。
 だから少しでもリスクが少なく安全なところに投げて、ストライクを先行させる。
 でないと、押し出しの追加点は、打たれて与える点(もの)より悪影響を及ぼすし、後々のダメージも大きい。野手の、だが。

 ストライクを先行させて、右側の客席からどよめきが起きる。
 何事かと思えば、選手以上にこの試合の成り行きを心配していたらしい観客の、驚きの入り混じった安堵の吐息だった。
 複雑な気分で再び打者に向き、バットを持つグリップの変化に気付いた。
 打つ気に満ちた構えから、今度は少し慎重になっている様子が窺える。
 さっきは無視したスクイズの可能性が見え隠れする。

 投球フォームに入りつつ、相手の出方を見極める。
 二球目、投球と同時に三人のランナーが一斉に走り、相手がバットをベース上に出す。
 この場面でバント! なら代わったばかりの投手のエラーを狙ったものだ。
 いい作戦だ。但し、俺がここにいなければ!
 予想以上に早くマウンドを下りた俺に焦ったのか、勢いは殺せたものの、ボールが微妙に浮く。
 間に合うか!?
 判断に迷ったのは俺だけじゃない。走者がダイレクトキャッチを危惧して止まる。
 だが、残念ながら半歩及ばず、目の前で地面に付いた。
 跳ね上がるところを素手で掴まえ、振り向きざま二塁へ投げる。
 俺のマウンドでの守備を信じていなかったのか、山崎がホームベースから飛び出したせいで、フォースアウトにできなかったんだ。
 二塁上でキャッチした松谷がベースを踏んで2アウト、即一塁へ。
 俊足のバッターランナーだが、ボールの方がわずかに早かった。

 相手のセコい作戦のおかげで、正直助かった。
 やれやれと息を吐き、たった二球投げただけでこの回のマウンドを下りた。

 ベンチに引き上げる俺達の目の前で、盛大な拍手が起こる。それがどんな意味合いのものか、読み違えるほどめでたくない。
 次の回もこんなにスムーズに行く事を期待されたら、迷惑この上ない。一発浴びて、四点の追加点を与えていた方が楽だったか。
 そんな事をふと思い、投げやりになっている自分自身を持て余しそうになる。
 頭を振って掲示板を振り返り、「あっ!」と、声が出た。
 相手のあまりに長い攻撃とポジションの交代で、自分達の攻撃が何番からだったのか、すっかり忘れていた。

 自分のところに点っているランプに気付き、慌てて駿のグラブを外し、帽子を脱ぐ。
 ベンチのガードにもたれ、ニヤニヤ笑う関にそれらを押し付け、無言でバットとヘルメットを取りに行った。

 監督や仲間に文句の一つも言えず、慌しく打席に向かう。
 門倉さんとの二度目の対決。
 初打席はサードへの中途半端なゴロで、ダブルプレーだった。今度はせめて一塁には行きたい。


 五対七で、この試合初めて追いかける側になった、七回裏の攻撃。
 ファーストバッターで打席に立った。

 実は、俺の一番好きな打順だ。本当はクリーンナップなんかじゃなく、一番がいい。
 初回だけでもランナーを気にせず自由に、想いのままバットを振れる。フルスイングしようがバントしようが、とにかく一塁に行きさえすればいいのが気楽でいい。

 変なプレッシャーがなくなったのは、バッティングも同様だった。
 二度目というのも多少あるのか、リラックスしている。
 逆転され、精神的に追い詰められていたはずなのに、そんなピリピリした空気も、全て洗いざらい吹き飛んでしまったようだ。
 それだけは関に感謝すべきだろうか? 
 そんな事、絶対口に出して言わないが、いい感じに門倉さんに集中できている。

 さっきの初球はストレートだった。俺はあの時見送った。それを門倉さんが覚えていたらストレートからの変化球で来る。得意のスライダー…ではなく、もう一つの変化球。
 消去法で球種を絞り、狙いを定める。
 初球、迷うことなくフルスイングした。
 確かな手応えを感じると同時に、低い弾道でサードベースぎりぎりに打球が飛んでいく。
 三塁塁審のフェアのジェスチャーを走りながら確認し、一塁ベースを蹴った。
 レフトの選手が追いつき、中継に入ったショートに投げる。
 それを見て二塁上で留まり、タイムをかけた。

 門倉さんの球をほぼ完璧に捉える事ができた。読みが当たったからだが、相手も恐らく俺が最初から強振するとは思わなかったに違いない。
 データ通りなら一球目はタイミングを取る為に見逃す事が多く、バットを振る確率は一割弱になっているはずだ。
 だが、門倉さんを相手にそんなぬるい事してられない。ヒットできる可能性の高い時に打つ。それに、この打席の初球は、俺にとっては初球じゃない。打席での一球一球は常に次の打席へと続いていく。
 加納のように相当力を持っていないと、一人の投手が一試合投げ切る事は困難だ。
 身体への負担だけでなく、同じ相手に何回も挑戦できるバッターの方が有利だからだ。

 バッターボックスに入った二番打者の山崎が、マウンドの門倉さんをす通りして、俺を見た。
 目と目がしっかり合い、初めて意志の疎通を図ると、山崎がやたら嬉しげに相好を崩し、それを隠すようにヘルメットの庇に手をやって、被り方を直した。
 山崎から俺へのサイン。中学以来ずっと変わらない『初球盗塁』の合図だ。
 あいつもどこかネジが飛んだらしい。
 二塁へならともかく、門倉さんを相手に自信を持ってサードを落とせるとは言えない。
 だが、山崎はカーブが苦手だ。その情報が相手に入っているなら、何球目かに必ずカーブを投げる。
 この回、一点でも追加点を入れる事ができれば、試合はまだわからない。

 本気を隠し、少しだけリードを取る。
 門倉さんがセカンドに投げる振りをするのに合わせ、俺も塁に戻る。再びベースから離れ、二メートル程の距離を自分の戻れるぎりぎりまで、少しずつ、慎重に伸ばしていく。
 門倉さんの足が上がる。刹那、会心のタイミングで三塁に走った。
 白いベースがはっきりと見える。
 ストレートならバントしてくれる。カーブなら、100km/h前後の球速なら、勝てる。走塁を読まれて外されたら……アウト。
 そこから先は何も考えない。
 何十回、何百回と繰り返してきた盗塁を、いつも通りするだけ。

 右足から三塁に滑り込んで、塁審のセーフの判定を聞き、ベースの上に立った。
 クロスプレーになると覚悟していたのに、意外にもボールはキャッチャーの手元にあった。
 ボックスでしゃがんでいたのか、山崎がゆっくり立ち上がる。なら、送球の邪魔にはならなかったはずだ。

 中学までは身体がでかいせいで、まるで障害物のように守備妨害を宣告される事が度々あったが、自分のポジションが板につくにつれ、そういう事も自然と考えられるようになったらしく、キャッチャーの邪魔だけはしなくなった。

 ホームで何かあったわけではなさそうだが……。
 不思議な気分で目を凝らす俺に、「ナイスラン」と声が掛かった。
 横を向くと、三塁コーチャーの三年の先輩が、拳を突き出してくる。それに合わせて俺も拳を作り、小さく応えた。

 カウントを確かめる為、掲示板を振り返る。1ストライク、ノーボール。投げられたのは、ストライクになるカーブだったようだ。
 少しでもタイミングがずれていたら、絶対刺されていた。
 今更ながら、山崎と交わした合図の大胆さに、肝が冷える思いがした。
 ここでアウトになっていたら、恐らく西城に勝機は訪れない。点差以前に、精神的なショックが大きすぎる。

 とにもかくにもノーアウト三塁。俺がホームに還れば一点差。
 レフトスタンドの盛大な応援を受けた山崎が、負けんばかりの大声を張り上げ、自分を鼓舞して門倉さんを見据える。
 打つ気がみなぎっているのは守備陣にも伝わっているはずだが、内野はあまり後退していない。
 ぎりぎりのところに踏みとどまりバックホーム体勢、もちろんスクイズを警戒しての守備だ。
 ……それも当然か。門倉さんの球が、そう容易く外野に運ばれる事はない。
 西城は一点ずつ返していくしかない。門倉さんから大量点は奪えないし、失投も恐らくない。
 二点の差をはね返す力が俺達にあるなら、それは長打ではなく、足を絡めた機動力によるものだ。
 それなのに、ベンチのサインは意外にもヒッティングだった。
 二点のビハインドだがまだノーアウト、五番バッターという事を考慮すれば、当然と言えなくもないが。
 山崎への二球目、再び山なりのカーブを、当てる事の苦手な山崎が、思い切りフルスイングした。当たればホームランにもなりそうな、見事な空振り。
 あれがあるから山崎なんだが、せっかくマスクを外しているのに、あいつの目は真正面から来る球にだけ反応するらしい。
 完全に手玉に取られ、最後はストレートで三振を喫した。

 1アウト三塁で高木さんが四度目の打席に立つ。
 ベンチの合図も今度は初球スクイズ。山崎より格段に上手い事を思えば、当然の選択。
 それに山崎の豪快なヒッティングの構えで、明峰にも迷いが生まれているのか、守備はほとんど定位置だ。その初球に賭けた。

 この状況で失敗は許されない。
 成功する確率を少しでも上げる為、こんな場面を想定した練習も、数え切れないほど繰り返してきた。
 とはいえ心臓だけはドクドクと、これまで以上に激しく脈打つ。
 そんな自分をやけに冷静に感じつつ、研ぎ澄ました五感の全てで、スタートの瞬間(とき)を計る。
 頬を熱い汗が伝い落ち、西城のグラウンドと同化して、ここが甲子園だという事をしばし忘れた。

 門倉さんがセットポジションから投球に移る。その一瞬、迷う事なく地面を蹴った。
 前方で、わざと大きく逸らされたボールに高木さんが喰らいつき、バットの先に当てた。
 ファースト方向に転がるボール。
 ホームに疾走する俺と、打球を追う明峰の選手。一秒にも満たない差が明暗を分ける。
 ベース前でがっちりブロックし、ミットを構え喚くキャッチャーをかわすように身を屈め、足元を狙って頭から突っ込む。
 視界の端に、返ってきたボールが見えた。
 捕球の為、ブロックしていた腰がわずかに浮く。その隙を突いて足元の僅かな隙間から強引にホームに手を伸ばすと、指先がベースに触れる。
 同時にキャッチャーが振り向きざま、滑り込んだ俺にミットを当て…いや、叩き付けた。
 互角のタイミングに、ベースの隅に指を引っ掛け、流される身体を強引に止める。
 軽く触れただけでは、俺の方が審判の目に不利だ。
 勢いのついた身体が横滑りに止まり、土埃がおきた。キャッチャーがミットを高く掲げ、審判にアウトのアピールをする。

 息詰まる一瞬。

 歓声の中、ホーム上での駆け引きを終始見ていた審判の、セーフの声を確かに聞いた。

 起き上がり、最高の形でバントを決めた功労者に小さく手を上げると、それに気付いた高木さんが、一塁ベースから晴れやかな笑顔で右拳を突き出した。

 三回以降0点に抑えられてきた西城が、5イニング目にしてようやくもぎ取った一点。
 待望の六点目……試合前の目標だった門倉さんからの初得点は、西城らしく足を絡めた、地味な追加点だった。
 

「ナイス北斗!」
「成先輩、凄すぎるッス」
 滑り込んだ際に付いたユニフォームの泥が、全部落ちそうなほど身体中叩かれ、手荒な歓迎を受けて、応えようにも声が出ない。
 からっからに乾いた喉元を押さえ、次々押し寄せる仲間を振り切ってベンチに入り、しゃにむにペットボトルを掴んだ。
 呼吸するだけで精一杯な、この喉の渇きと疲労感。
 駿が出て行ってからまともに休んでなかったと思い出す。ここまで持ち堪えられたのが奇跡だ。

 一言も発せず、身を投げ出すように腰を下ろし、とにもかくにも水分補給する。そんな俺の前に、すっと黒い影ができた。
 視線だけで相手を確認し、飲みかけていたボトルを口から離すと、目の前に立った和久井監督が、膝に頭が付きそうなほど勢いよく頭を下げた。
「成瀬君、本ッ当に申し訳ありませんっ!!」
 どちらが選手かわからないその態度に、せっかく摂取しかけた水分をそこら中撒き散らしそうになった。
「なんっ……ゲホッ、ゴホッ、グフッ」
 一旦出かけた咳が止まらない。
 前のめりに身を屈め、そのままベンチに突っ伏して激しく咳き込んだ。
 マジで苦しいっ、息が……できないっ!
「ちょっと! 大丈夫ですかっ!?」
 監督に背中をさすられて、咳の合間に喘ぎながら乱れた息を整える。そうしている内、ようやく咳が治まり、呼吸も徐々に楽になってきた。

「コホッ、……ハア、あ〜死ぬかと思った」
 こんなしょうもない事で余計な体力使いたくない。ぐったりとベンチに身体を預け、脱力していると、
「重ね重ねすみません」
 消え入りそうな声が届いた。
 十才近く年上の監督を上目遣いに見遣って、その苦悶の表情の裏にある心情に気付き、七回の攻撃に移る時言いたかった苦情を飲み込んだ。

「――言い出したのは関です。監督が責任を感じることはありません。けど、この試合が最初で最後だ。俺に西城のマウンドは、守れませんから」
「そう…かも知れません。それでも、君は逃げなかった。無茶な要求にも関わらず、無理矢理にでも引き受けてくれた。そのお礼は言わせて下さい」

 拮抗したゲームの最中だというのに、監督の表情はいつもと少しも変わらない。それを見て、何となく納得した。

 この人は、野球部の監督としてこの場所にいるわけじゃない。教育の延長線上に野球というスポーツがあり、たまたま自分がその監督に当たっただけだと思っている。だから、過度の期待を俺達に押し付けないんだ。
 そして俺達もそんな監督のスタンスを、いつの間にか好意的に受け入れていた。

「試合が終わってからでいいです。いつゲームセットに辿り着けるか、わかりませんが」
 監督にしてみれば、関の言いなりになり、俺への負担を増やした事に、罪悪感を感じたのかもしれないが、俺に言わせれば、あのまま田島に任せていた方が絶対よかった。
 俺が七回を切り抜けられたのは、ただ運がよかっただけ。田島と俺ではやはり経験に差がありすぎる。西城が先攻ならよかったのに。
 あと八回と九回、二イニングの明峰の攻撃は避けられない。最低でもあとアウトを六つ取らなければ、ゲームセットにはならない。

「北斗、行けるか?」
 ベンチを覗き込むように山崎に声を掛けられ、西城の攻撃が終了した事を知った。
 ホームでのクロスプレーの間に高木さんが一塁セーフになり、続く柴田さんにも初ヒットが出て、久々にレフトスタンドが賑やかになっていた。
 ただしその事は、門倉さんの闘争心にも火を点けてしまったらしい。
 本気モードになった門倉さんを相手に、前回テキサスヒットを打った久住も、初めての打席になる迫田さんも三振に倒れ、あっけなく後続を断たれた。



 一点の追加点止まりになって迎えた八回表。
 六対七、点差は僅かに一点。

 このイニングからが本当の試練だ。
 
 俺に、明峰の打線を抑える事が可能なのか?

 疑問を引きずったまま、ノーカウントのマウンドに立った。


 この回必ず回ってくる、今大会屈指の大物スラッガー、室生さんの前にランナーを溜めるのは避けたい。

 ファーストバッター、二番の右打者に、山崎の要求通り、一球目を投げる。
 初球、外角一杯、膝下すれすれの球を叩かれた。
 大きくバウンドした球が、一塁に飛んで行く。柴田さんが落ちてくる球をキャッチし、そのまま一塁ベースを踏んだ。
 ついている、としか言いようがない。
 二番手、三番の右バッターにも同じところを要求され、首を振ることなく構えたミットめがけて投げた。
 その球がまたファースト方向へ。だが今度は一、二塁間を抜けるシングルヒットになった。

 ……もしかして、俺に内角を投げさせるのをためらっている?
 久しぶりに投げる俺が、バッターを恐れるのは当然の心理だ。内角を要求して、球が中心に寄る可能性を心配しているんだろうか。
 その気遣いはもっともだが、そんな事で室生さんは抑えられない。
 山崎と俺との間に信頼関係はあっても、バッテリーとしての意思の疎通は皆無だ。
 四年間のブランクは、そう簡単に埋められるものじゃない。
 相変わらずピッチャーを気遣う山崎のリードは、低めに球を集め、長打を避ける事。それ自体にはもちろん賛成だ。が、相手にもそれが筒抜けなら打たれて当然だとも思う。
 まして俺はスライダーやフォークを投げる事もできない。
 それを承知でマウンドを託すなんて、やはりどう考えても無謀としか言いようがない。

 案の定、四番の室生さんに低め、しかも外角寄りのコースを見極められ、上手くレフト後方に運ばれた。
 二度目のホームランにならなかっただけましだが、一塁走者は三塁へ、打った室生さんもセカンドへ滑り込んだ。
 コントロール自体は悪くないと思う、というか上出来だ。一応意識したところに行っている。けど、球速は……見ないでおこう、自信喪失に直結しそうだ。
 俺の投球術の底の浅さが知れたら、きっと牙を剥くように襲い掛かってくる。
 今はまだ、じっくりと様子を探っているような感触だ。だから俺ののらりくらりとした締まらない投球でも、どうにか持ち堪えている。それもどこまで通用するのか、謎だ。

 一点差に詰め寄られた明峰ベンチが、再び突き放しにかかる絶好のチャンスに沸き、ライトの応援団席からも力強いエールがウェーブとなって球場を包む。
 やはり西城は、名門 明峰高校の最初のスケープゴーティング、もしくは引き立て役になりそうだ。

 ともすれば後ろ向きになっていく思考は、瑞希の専売特許だったはずだが、スランプ以来どうも俺にまで伝染しているようで、落ち込みに拍車がかかる。

 点差はそのまま、1アウト二、三塁。
 五番の打者も室生さんに引けをとらないパワーバッター。スクイズとかの小技を仕掛けてくる可能性は少ないと見た。
 七回の重要な場面で失敗した事を思えば、相手ベンチとしてもこのバッターにヒットを期待する方が得策なのは言うまでもない。それに二、三塁で盗塁もないだろうから、今は迷わずピッチングに集中する。
 投げ損じを狙っているのか、山崎のリードする球がことごとくカットされる。
 だが駿のように決め球があるわけじゃない。単純に、相手の裏をかければ俺達の勝ち、読まれれば相手の勝ちだ。

 互いに粘った六球目、再び快音が響き、コースを読まれ打ち返された打球が、今度はレフト前に落ちる。
 高木さんが拾い、敵の動きを牽制するが、三塁のランナーは余裕でホームに還り、また点差が開く。
 それでも二塁の室生さんを三塁に、打った五番打者を一塁に留まらせる事はできた。
 ライトスタンドの勢いづいた応援と、レフトスタンドの落胆のため息が、グラウンドの中心で混ざり合い、微妙な空気をかもし出す。
 それを振り払うように被っていた帽子を取り、顔を仰いだ。

 守備についていて、気分を変えたい時にする癖。
 俺にしてみれば、よくシングルヒットで済んだと正直ホッとしている。それほど完璧に捉えられた当たりだった。
 明峰のクリーンナップ相手にしては、上々の結果だろう。その怪物達は、まだダイヤモンドにいて、隙を狙っているが。

 こめかみを伝い落ちる汗をユニフォームで拭き、手にした帽子を被り直す。
 肺に大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
 これまで吐いていたため息とは違う、気持ちを落ち着かせる為の自然な呼吸。
 合計すればもう二時間近くグラウンドにいる。そのせいか、五万人近い観衆にも段々と慣れてきていた。

 六対八に変わり、1アウト一、三塁で下位打線の六番を迎える。
 ヒッティングよりもスクイズを警戒して投げる俺の目に、室生さんが走るのが映った。
 やはりスクイズだ!
 指からボールが離れるのと同時に打球の処理にマウンドを下りる、その動きを察したバッターが出したバットをプッシュして、ボールに勢いをつけた。
 マスクを外した山崎だが、今度はベースから前に出てこない。少しは俺を信頼したらしい。
 僅かに方向が変わりサードとマウンドの中間に、中途半端にスピードの増した球が転がるのを、左手に嵌めた駿のグラブを思い切り伸ばしてキャッチする。
 半分後ろ向きになった体勢でホームに目を遣り、追加点の阻止は諦めた。そのままステップを踏み、一塁、柴田さんのミットめがけてボールを投げた。
 

 一旦縮まったかに思えた点差がまた広がり、六対九。
 2アウト二塁となって、七番の門倉さんに対峙する。
 アウトを一つ取る度、おまけのように一点ずつ入っていく。
 ……何だかなぁ な、この展開。
 これ以上相手に点を与えるわけにはいかないのだが、相手は門倉さん。バッターとしても室生さんに引けを取らない実力者なのは、これまでの打席でも十分に伝わってきた。
 そんな相手に俺の投球など、通用するはずがない。唯一の武器と言えば――
 ピッチャーとしての強み……コントロールと抜群の安定感? そんなもの、1ランク上にいるバッターは歯牙にもかけないだろう。
 だが、今更臆している場合でもない。なら俺なりにそのコントロールを駆使して、せめて外野に持っていかれないようにする。アウトは無理でも追加点はやらない、それだけだ。

 目に入りそうな額の汗を拭き、山崎のサインを窺った。
 外角、ボールになるカーブを要求され、山崎の組み立てを頭の中で自分なりに考える。
 ストレートが多かったから、一球様子見だろうか。それともボールを先行させても大丈夫だと、俺の制球を信頼してくれたのか。どちらにしても山崎の希望通りの球を投げるしかできない。
 頷いてセットポジションでセカンドのランナーに目を遣った。
 リードはさほど大きくない。ヒッティングの可能性大だ、そう読んで門倉さんに投げかける、彼のスタンスがバッターボックスの内側に寄ったのに気付いた。
 やはり、内角を敬遠している事に気付かれてる、だとしたら外角はやばい。

 頼むぞ、山崎! 

 咄嗟に判断し、出されたミットの反対側、インサイド胸元にストレートを投げた。

 2アウト。後逸すれば、二塁ランナーは余裕で三塁に進塁する。
 ボールの軌道を察した門倉さんがのけぞるように身を引く。触れる事なくベースを通過した球が、大きく動かした山崎のミットに、パンッと小気味いい音を立てて納まった。
 審判の判定はストライク。一球得した気分だ。けど、正直あのまま投げていたら危なかった。
 ボール球でも甘ければ打たれる。門倉さんが明らかに外角を狙っていた事を思えば、見逃す可能性はわずかしかなかっただろう。
 山崎がマスクを外し、何か言いたそうに返球するのに、手首を振って投げ損じの真似で誤魔化した。
 少しくらい制球力が怪しいと思わせるのも、策としては有効だ。

 二球目のサインは、今日一番多く投げている低目のストレート、ストライクコースだ。
 安定した球で落ち着かせるつもりか、あいつの方が安心したいのか。
 とにかくここは、キャッチャーの望み通りのところへ投げておかないと。

 グラブの中で握りを確かめ、再び投球モーションに入る。
 セカンドランナーのリードを目だけで牽制して、今の俺の精一杯の球を投げた。
 つもりだったのに、汗で指が滑り、思いっきりすっぽ抜けた球が行ってしまった!!
「げっ!」
 思わず声を上げ、投げたボールの後を数歩追う。
 三回バウンドして無事山崎のミットに収まったボールにホッとしたが、バットを懸命に止めた門倉さんの必死な形相があまりにも対照的で……。
 異様に静まったレフトスタンドに、甲子園に不似合いな笑い声が起こった。西城の学生だ。

 ……恥ずかしい。

 居たたまれない気分でマウンドに戻る。
 俺の本気の投球フォームに感化されていたのか、自身の身体をバットでどうにか支えた門倉さんも、集中力が切れたらしくタイムを取り、バッターボックスを出て行った。
 あれだ、スッカンを食わされる、そんな感じ。

「この馬鹿っ!! だからロージン使えって言ってんだろっ!」
 マウンドに戻るやいなや、ボールと一緒に山崎の怒鳴り声が浴びせられ、仲間の野手までクスクス笑い出す。
 これでも精一杯やってるのに、失礼な奴らだ。
「はいはい」
 聞こえるはずないからお座なりに答え、ロージンバッグに手を伸ばす。俯いた俺の耳に、
「北斗ォ、負けるなーッ!」
 レフトスタンドから、異様に鮮明にその声が届いた。
 驚きもあらわに観客席に目を遣って、見つかるはずのない声の主を探す。

 あの声は、確かに本城だった。という事は、瑞希の応援に行ったのは三年だけだったんだ。

 部の中で一番仲のいい本城が行ってないなら、他の同級生はもちろん、一年も誰一人広島には行ってない。
 おそらく、みんな甲子園止まりだ、野球部の応援の為に。
 笑い者にされかけた俺への一声は、瑞希への応援の代わりだろうか。
 中学時代はずっと内気で大人しかったのに、剣道部に入ってから、声は飛躍的によく通るようになった。それとも毎日の掛け声の賜物か?
 過去の彼からは想像もつかない大胆な真似に、自然に笑みが浮かぶ。
 ……ありがと、本城。
 心の中で呟いて、取り損なっていた滑り止めに再び手を伸ばす。そんな俺に、次々声が掛かった。
「頑張れーっ!」
「諦めんじゃねえぞォ!」
 腹の底から叫んだ本城の声が呼び水になったのか、いつもならメガホンを使っても聞こえないのに、一人一人の叱咤激励が……励ます声がはっきりと伝わって、複雑な想いに囚われ、苦しくなった。


 ――ごめんな、瑞希。
 自分の事にしか気がまわらなくて、出発した後の西城高校の方針なんか全然考えてなかった。俺達の甲子園出場が、お前の孤独に拍車をかけていたなんて。
 本当なら、この声援は瑞希に掛けられるべきなのに……その正当な権利は、県大会優勝を成し遂げたお前にしかないのに。

 それでもお前は、決勝まで勝ち上がったのか。遠く離れた会場で、たった一人で。 
 そんなお前を、楽しみにしていた甲子園にも呼んでやれないなんて、情けなさすぎる。

 たった一つ、この試合だけ勝てば、瑞希を呼べる。


 唇をきつく噛み締め、手にしたロージンバッグをぎゅっと握り潰し、地面に叩き付けた。

 負けられない。

 たとえ駿がマウンドにいなくても……ベストメンバーでなくても、今から諦めたりできない。


 しっかり滑り止めをして息をつき、間合いを取った三球目。
 ストライクを取りに行くと読んでいた門倉さんのバットが、俺の球を真芯で捉え、振り切った。

 来るッ! 
 守備の勘が打球の行方を瞬時に判断する。猛烈な勢いでワンバウンドした球が俺の右側を抜けかける。咄嗟に身体を捻り、左足を踏み込んでグラブを出した。
 バシッと、止めた打球の勢いに圧され、グラブが身体ごと持って行かれそうになる。
 左ひざを付きどうにか踏み留まって、ボールを右手に持ち替えながら一塁を振り返ると、俊足の門倉さんが一塁ベースとの距離を見る見る詰める。
 間に合わない! そう察し、片膝立ちのまま強引に投げた。
 低い弾道でボールが一塁に向かう。柴田さんが身体を限界ぎりぎり前に出し、それを捕まえた。ほとんど同時にベースの上を門倉さんが駆け抜ける。
 際どいタイミングに、一塁塁審に視線が集中する。その拳が胸の前に上がった。


 アウトの判定に、ほっと息を吐いて立ち上がり、両膝に付いた泥を手の平で払い、ベンチに引き上げる。その途中で後ろ頭をバコッと叩かれた。

「こら! あんまマウンドで活躍すんなよ、戻れなくなるだろ」
 振り向くより先に横に並んだ松谷が、明らかに不機嫌丸出しの顔で抗議してきた。
「冗談、誰が活躍してるって?」
「とぼけるなよ。お前しかいないだろうが」
「――あのな、活躍してたら二点も取られたりしないぞ」
 それに、いくらその場しのぎの投手とはいえ、キャッチャーミットに3バウンドは……顰蹙(ひんしゅく)ものだろう。
 思い出して苦笑いが浮かぶ。そんな心情など全く気にする風もなく、松谷が呆れたような眼差しで俺を一瞥した。
「バカ言うな。優勝候補のクリーンナップだぜ、連打されて当然の相手だろ」
「そうか?」
 答えかけて、突然目の前がぱっと開けた気がした。

 俺も頭ではそう思っていた。だから、どうなっても知らないぞという気分で、半分やけくそ気味に引き受けた。
 だが一旦マウンドに立てば、そんなわけにもいかない。

 けど、打たれて当然だと他の奴――仲間から聞かされ、自分の思い上がりに……というか思い違いに、唐突に気付いた。

 バックを守ってる奴らは、俺が打たれたって本当にかまわないんだ。
 だが、それは負ける事を前提にした諦めとは違う。打たれてもカバーしてやるという、決意を持って守ってくれていた。
 結城キャプテンの言ったボロ負け云々は、いきなり無理難題を押し付けられた俺の、精神的な重圧を少しでも減らす為のものだったんだ。

「――そっか、そうだな。打たれてもよかったんだ」
 清々した気分で呟いて、クスリと笑みが零れた。
「あ…や、そんな嬉しそうに言われても困るけど……」
 予告もなく相方をもぎ取られた松谷の、仏頂面が戸惑いに変わる。そんな友人の肩を、グラブで軽く叩いた。
「いや、ありがと裕也。おかげでなんか楽になった。お前は間違いなく最高の相棒だ」
 きょとんと見返した一番打者の松谷を残し、ベンチへの階段を駆け下りていった。


 四年前――中一で初めてマウンドに上がった時には、そんな風に考えられなかった。
 いきなりの登板で、あまりのプレッシャーに周りが見えなくなり、ただ怖くてたまらなかった。

 あの時、俺はその試合の全てを自分一人が背負わされたと、勘違いしたんだ。
 それほどピッチャーという存在は、大きなものだと思い込んでいた。
 いや、確かに一番重要なポジションに違いないが、俺にとってはそうじゃなかった。
 本当はあまりにも簡単で、単純な事だった。

 自分の欲した、いるべき場所を外され、改めて強く感じる。俺がフィールダーに拘るもう一つの理由。
 それはみんなに守られるより、誰かを守りたいと強く望む気持ちだった。
 野手を信じて投げるより、打たれたピッチャーを援護したい。

 ……ひょっとしたら、俺は人一倍庇護欲が強いのかも。
 自己満足と言えばそれまでだが、自分がピッチャーをやると、その充足感は得られない。
 去年、他の部から熱烈なアプローチを受けても、どうしても入る気にならなかった訳が、今ならはっきりわかる。
 確かに野球以外、そんな事をじかに体感できるスポーツはそうないだろう。
 それに、それを得る為にはバッターが打たないと始まらない。
 打たれないように投げるのがピッチャーだが、俺はピッチャーが打たれる事に喜びを見出してる。

 そこに思い至り、こっそりため息を吐いた。
 こんな事、仲間には絶対秘密だ。


 ――『ワンちゃんは、相手を三振させるのが嫌なんだ』

 夕暮れの中、俺の目を真っ直ぐ見てそう言い切った加納は、俺のひねくれた願望を見透かしていたんだろうか。

『三割は打たれた後の守りに向いてるみたいだ。バッターもいないのに、ね』
 そう指摘され、黙って加納を見返した。
『そんなに守備が好きなんだ』
 ほんの少し寂しさをのぞかせた瞳が、言葉より雄弁に俺の心を捉え、ピッチャーの俺を追っていたと知った後でも、嘘を吐く気にはなれなかった。
『まあ、そうだな。内野でも外野でも構わない、ボールを追ってグラウンドを走るのが、何より楽しい』
 そう、答えていた。

 だから、再びマウンドに上がっただけで、また特別な場所に立たされ、重責を負わされた気になっていた。


 打たれたってかまわない。それをフォローする為に七人のフィールダーがいる。

 ピッチャー、キャッチャー、フィールダー。

 それぞれ役割は違っても、野球は九人でするものだという初歩を心の中で反芻して、自分が今ようやく、過去の苦い経験を克服できた事を知った。




← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 小説&まんが投稿屋 トップページ
アクセス: 2693