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作品名:星を道標に  \ オーバーカム 作者:ナナセ

第7回 試練のスタジアム V 後編

               〜 試練のスタジアム V 後編 〜



 六回裏の駿の打席に代打が送られた時点で、ある程度予測していたとはいえ、アナウンスがピッチャーの交代を告げた瞬間、再びレフトスタンドが騒がしくなった。
 もちろん、駿がマウンドに上がらなかった事に対するものだ。それだけ期待していた。あと三回、あのまま好投するのを。

 それでも試合は進んでいき、いよいよ終盤、七回表。
 ファーストバッターは一番の好打順。三回の時もこのパターンで点を許した。
 二度目の登板となるこの回、田島の力投に期待するしかない。他の野手もその事は十分承知している。
 本塁から大声で指示を出す山崎に、各々守備位置を確認して応え、第一球目に集中した。
 その初球、いきなりライトとセンターの中間後方に落ちる、大きな当たりが出た。
 一塁を回ったランナーが俊足を生かし、一気にセカンドに走った。

 二番打者がヒッティングの構えを見せる。ファーストが空いている事を思えば、自分が生きる為、その構えもおかしくはない。
 だが……ヒッティングと見せかけて転がすかも。
 どっちだ?
 初球、投げるのと同時に山崎が立ち上がった。
 ランナーが飛び出し、バッターが大きく外されたボールにバットを出しかけて、ぎりぎり止めた。
 ミットに収まった球をセカンドに――投げる振りだけで、山崎もけん制に留め田島に返した。走者が迷ったのか、それほど出ていなかったからだ。
 今のはサインミスか、山崎の好リードか。
 敵にしてみれば意表を突く作戦は失敗したと言えなくもない。が、カウントは0―1で相手の選択に幅が生まれる。

 リードしている俺達に、精神的なゆとりなど全くなかった。
 先の読めない試合展開。面白いはずのそれは、当事者達にとってはたまったもんじゃない。
 駿の再登板が期待できそうにない今、このゲームを楽しむ余裕もなくなってしまった。
 ほんの僅かでも気を抜けば、それは即反撃への足がかりにされてしまう。

 ノーアウト二塁、ボールカウント0―1。
 二球目、内角高め、胸元にボールが決まってストライク。
 田島の球は、3イニング丸々休んだおかげもあり多少は回復していた。それほど球数を投げていたわけでもない、まだいける。
 三球目、同じところに要求したボールが、僅かに中に寄る。
 右打者に対し内角に集め、できるだけレフト方向に打たせようとするバッテリーと、ライト方向に打ち、ランナーを進めたいバッター。
 それぞれの思惑がぶつかり、バットがボールを捉えた。快音はライトのファウルライン際の壁に当たる長打コースに。
 渡辺が走り、最短な打球処理でボールを掴み、すぐに松谷に返球する。
 二塁ベースを蹴ったランナーが、頭から三塁に突っ込んだ。
 ノーアウトのまま、相手に待望の追加点が入る。


 五対三となり、ランナー三塁で三人目、クリーンナップの三番。
 前回の打席、駿の球を見逃し三振したバッターが、そのリベンジに燃えてバッターボックスに立つ。
 田島にしてみれば不本意の極みだろうが、誰に文句を言うわけにもいかない。
 1―2からの四球目、投げるのと同時にランナーがホームに走った。バントではなくヒッティング。
 再び快音を響かせはね返されたボールが、地面を低く転がり、ショートとサードの中間を襲う。
 体勢を崩されながらもどうにか捕球し、踏み止まる。そのまま迷う事なく、柴田さんのミットめがけて腕を振り抜いた。
 バシッと、小気味いい音で収まったボールに、ほっと息を吐いた。

 また一点返されたものの、待望の1アウト。
 抜けていれば、流れは一気に明峰に傾いただろう。
 二度目の登板になる田島の球で、相手チームの打線を抑えるのはやはり厳しい。
 守備に就かず、ベンチに下がった田島が再登板した事で、駿の怪我の状態が完全に見抜かれてしまったようだ。
 その弱みは西城にしてみれば致命傷だ。敵なら必ずそこを突いてくる、当然の策だ。
 バントで確実に一点取るより、この機会により多くの点数を奪い、こちらの動揺を誘う。こんなに効果的な揺さぶりはない。

 結果、四番打者の室生さんが打つ前に、ランナーが還ってしまった。
 これは西城にとって吉なのか凶なのか。点差は僅かに一点。

 バッターボックスに室生さんを迎え、1アウト、ランナーなし。

 ――頼む、頑張ってくれ、田島。

 恐らく野手の誰も……いや、西城の学生や市民、皆がそう祈っていた。

 その願いも空しく、振り切られたバット。
 ボールは、真夏の西宮の空に高く上がり、レフトの観客席中段に飛び込む、ソロホームランになった。


 この試合の第一号は、今日の第一号であり、今大会の第一号でもあった。
 それを、前回優勝校の四番打者が打ったという事に、大きな意味がある。
 初日のホームランは出ないかもしれないと、観客の半分近くが諦めかけていた。
 誰もが待ち望んでいたその一本だけは、敵味方関係なく、観る者の心を動かした。
 会場全体が盛大な拍手に包まれる。その中を室生さんが、ライトのベンチから声を掛ける仲間に手を上げ、一塁ベースに向かう。

 ……やっぱり、あっさり同点に追いつかれてしまった。

 センターを守る久住も早々に諦めた、見事な当たりの打球。
 悠々とダイヤモンドを回る室生さんから、マウンドの田島へ、そしてマスクを外した山崎に視線を移した。

 田島の様子は変わらない。こういうところは本当にすごいと思う、だが……。
 スタンド中が一体となったような歓声の中、目の前でホームベースを踏み、意気揚々とベンチに戻る室生さんを、黙って見送る山崎が気になった。

 いつもなら一本くらい打たれても堪えないタフな奴だ。
 一番に大声を張り上げて、他の野手の気持ちを切り替えさせる、大切なムードメーカー。
 大勢はいらない。波に乗っている時に沢山いたら、やかましすぎる。だが、チームに一人は絶対必要な、大切な存在だ。
 山崎の掛け声がグラウンドに響かないと、俺達はこの圧倒的な波に簡単に飲み込まれてしまう。


 最も劇的な方法で同点に追いつき、ブラバンの演奏で益々士気の上がるライトスタンド。
 反対にレフトスタンドは、大会第一号の余韻が遠ざかると、スコアボードの表示を目の当たりにしてか、ざわざわと動揺のざわめきが収まらない。
 あれだけあった点差がなくなり、ボードに5と5の数字が並ぶ光景は、今まで優勢を保ち活気付いていた応援席にも、かなり影響を及ぼしたようだ。
 追いかけられる側の重圧と、追いつく側の攻勢は、振り出しに戻っただけという事実以前に、互いを大きく隔てていた。


 王者の底力を見せ付けられ、自分も続くぞと言わんばかりに、次の打者、クリーンナップの五番からも、打つ気がみなぎっている。
 反対に投げる田島は、ホームランを打たれても、意外に淡々としている。
 彼の長所でもある平常心は、闘争心とは無縁だ。打ち取ってもそう喜ばないかわりに、打たれても動じない、案外厄介な奴なんだ。

 そんな田島のコーナーを丁寧に突く投球も、パワーバッターならタイミングさえ合えば、楽々外野に持っていかれる。
 同点になって気が楽になったからか、大振りする事もなくなり、五番、六番と連打を浴びて、ランナー一、三塁で、再び門倉さんを迎えた。

 まったく、次から次へと嫌なバッターばかり出てくる。
 駿でさえかなり苦労していた。初めての甲子園で明峰との対戦は、相当荷が重かったに違いない。
 だが、経験は必ず今後の糧になる。現に駿も一つ一つのプレーが、イニングを重ねるごとに飛躍的に上手くなっていった。
 あのまま、最後まで投げていたら……。
 考えても意味のない事は、自分が一番よくわかっている。だが、残念でたまらない。
 それでも、今は目の前の敵から少しでも早く、アウトを取る事だけ考えなければ。


 気持ちを切り替え、門倉さんの打球に備えた二球目、バットが再び硬球を捉えた。
 ライト線への長打で、五番と、ファーストのランナーまでホームに還ってきて、この試合初めて逆転された。しかも二点差。
 打った本人は二塁で止まったが、一塁走者まで楽勝でホームベースを踏ませ、流れは完全に明峰に傾いてしまった。



 五対七、二点のリードを許し、なおもランナー二塁に門倉さんを置いて、七回表の猛攻が続く。

 頭上からの照り付けは幾分和らいだとはいえ、八月初旬、グラウンドの熱は変わらない。
 こめかみから伝い落ちる汗をユニフォームで拭いて、意識をバッターに集中させる。
 かなり長い試合時間になっている気はするが、今何時かなんてどうでもいい。とにかくアウトを取れば、この嫌な流れが切れる。
 頑張れ、田島! 
 何度もそう願い、背中に呼び掛けてきた。
 みんなの想いは、きっと田島にもひしひし伝わっているんだろう。
 だが試合経験の豊富な明峰は、攻めるべき時やタイミングを心得ている。この回が狙い目とばかり、攻撃の手を緩めたりしない。

 バッターボックスに立つ八番の打者は、これまで三打席の内、二回の四球と駿の打たせて取るピッチングに抑えられ、ちゃんとしたヒットはまだ出ていない。
 緊迫した空気……いや、明峰には押せ押せムードの中、田島の足が上がった。
 その初球、バッターが自信を持ってバットを振り抜く。弾き返された打球は、センター前への鋭い当たりになった。
 久住がダッシュして取り、そのままホームへダイレクトで投げる。
 ベストポジションでボールを受けた山崎が、一気にホームを狙う走者をけん制し、投げる振りをする。三塁をオーバーした門倉さんが、ヘッドスライディングでサードベースに手を伸ばした。

 追加点が入るかどうかの駆け引きにみんなの視線が集中する中、一塁ランナーがその隙を突き、二塁に走りかけた。
「セカンだッ、刺せるぞ!」
 気配で察し、叫びながら二塁ベースに入ると、松谷がすぐバックアップに回る。
 この歓声の中、山崎に届いたかどうか。だが、一塁側には聞こえたらしい。
 門倉さんの動きを封じた山崎が、一塁に目を向けるのと同時に、ランナーも盗塁を諦めてファーストに戻った。

 一瞬の隙も見せられない。久住が守備位置よりかなり前進して捕球したんで、その時には一塁に留まるかに見えたが……。
 それとも、塁を一つでも多く進める為に、門倉さんがわざとホームを狙う振りをして、囮になったのか?
 だとしたら、とてもじゃないが太刀打ちできない。
 この緻密さと大胆さが、上に勝ち上がっていく為の秘訣なのか?
 そんなもの、今の西城には全然ない。
 こんな強敵を相手に、俺達はどこまで自分達らしい試合ができるんだ?


 心の隅に不安や迷いが生じれば、必要以上に警戒し、プレーに勢いがなくなる。
 いつの間にか俺達は、明峰高校の実力を自分の目以上に、会場の雰囲気で測っていた。
 それらが悪循環となって西城の選手を飲み込み、気付かない内に萎縮して、いつものプレーができなくなりかけていた。


 1アウト、ランナー一、三塁。
 一旦火のついた打線が止まらない。

 一番から始まったこの回、とうとうラストバッターの九番が打席に立った。
 バックスクリーンに目を遣れば、この回だけですでに四点入れられている。
 山崎の要求するボールが、一層厳しくなる。
 田島の制球も決して悪くはないが、駿のボールを見た後ではやはり打ち頃に思えるのか、スピードや球威で抑えられない分、際どいコースを突くしかなくなる。
 相手もその事を心得ていて、自分も何とか塁に出て、上位打線に繋ごうと必死だ。

 生き残る為にバッターが選んだ選択は、ヒッティングではなく、4ボールだった。
 カウント1―3からの五球目、普通なら振るだろうボールを、出しかけたバットを懸命に止め、4ボールをもぎ取った。

 相手の裏をかいた、絶妙の変化球だった。それが、満塁で一番。絶体絶命、だ。

 完全に明峰に行ってしまったこの流れを、断ち切る事が、今の俺達に可能なのか―――。




 堪らずタイムを取った山崎が田島の元に走っていく。当然内野手もマウンドに集まった。

「悪い、山崎」
「しゃあねえよ。それにしてもよく打ちやがるぜ」
 さっきのボールを見極められ、悔しさが倍増したのか、山崎が忌々しげに吐き捨てた。正直すぎる感想だ。
 それはともかく、今は愚痴より、打開策を見出す方が先決だ。
「キャプテン、どう――」
 言いかけて、口を噤んだ。俺の右側に立つキャプテンの後ろ側、レフトのベンチが、何やらざわついていたからだ。
 普通ならベンチのガードにもたれ、試合の流れを見守っている仲間が、今は一人もいない。みんな中で何か言い合い、動き回っている。

 駿が帰ってきたのか?
 ……いや、いくら何でも早すぎるだろう。
 だが、ぎりぎりまで張り詰めていた気持ちが、少し緩む。

 駿が出て行ってから三十分近く経っている。病院までどれくらい掛かるか知らないが、ここは西宮だ。それほど遠くまで行く必要はない。
 思いがけず症状が軽かったなら、検査の結果次第では早々に戻る事も有り得る。
 それくらいは融通してくれるはずだ。なんせユニフォームのまま出て行ったんだ。

 そんな事を考えていると、ベンチから出た監督が主審の元に向かった。
 選手の交代は間違いない。だが、監督と同時に出てくるはずの肝心の選手が出てこない。
 もしかして、この状況を見ていられなくなった関が、駿の無茶ぶりに触発されて、投手の交代を申し出たんだろうか。

 マウンドに集まった野手の誰もがそう思い、固唾を飲んでダッグアウトを見つめる。と、やはり関が、かなり遅れて階段を上がってきた。

 けど関の怪我は全治3週間だった。あれからまだ一週間ほどしか経っていない。監督の意向でベンチ入りしてはいるものの、投げたりして大丈夫なのか。

 田島に代われそうなピッチャーの存在を得て、安堵するのと同時に、別の不安が湧き上がる。
 ところが、それを案じるより先にもう一人、駿が負傷した時、監督の伝令を伝えに来た三年の迫田先輩までが、グラブを手に関の後に続いて出てきた。

 投手以外にも誰か交代するのか? 
 首を傾げつつも、走って来る二人を待ち、内野手の輪の中に加えた。

「指、大丈夫なのか? 関」
 結城キャプテンがみんなの気遣いを代弁して訊ねるが、返ってきた答えは、すぐには受け入れられない、思いもよらないものだった。
「いや、俺 投げないス」
「え、なら――」 
 予期しなかった返事に戸惑ったらしく、結城キャプテンの声が途切れ、じれた松谷が代りに口を開いた。
「お前が投げなくて誰が投げるって言うんだよ」
 関の持つグラブに視線を移し、その意味を言葉でなく目で尋ねる。
 言いたい事をすぐに察した関が、「ああ」と、手にしたグラブに目を落とし、意味深な笑みを浮かべた。
「これ、俺んじゃねえよ」
「はあ!? 何だそりゃ」
「わり、俺も投げたいんだけど、やっぱ無理」
 そう答え、包帯の巻かれた左手を振って見せた。
 確かに左腕の関のグラブではない。抱えているのは右投手用のグラブだ。
「それよりさ、いい事思いついたんだ」
「いい事……」

 関の意味不明の言動をいぶかしむ俺達の耳に、熱のこもったグラウンドに不似合いな、涼やかな声が届いた。

『 西城高校、選手の交代をお知らせします。

  ショート、成瀬君に代わりまして迫田君 』
 

 え、…俺? 

 その放送を聞いた瞬間、当事者の俺と関、迫田さん以外の内野手が、戸惑いもあらわに顔を見合わせた。  

 やっぱり、スランプのせい……か。
 スタメンで出た時から半分覚悟はしていたが、実際に下ろされるとなると、これまでのプレーの全てが認められなかった気がして、正直ベンチに戻るのも、辛い。

 そんな俺の心中などまるでお構いなしに、関が嬉しそうに声を弾ませた。
「やった! 間に合った」
 満面笑顔で指を鳴らすのを目の当たりにし、俺より松谷の形相が変わった。
「間に合ったって何だよ!」
「シッ! 静かにしろ!」
 胸倉を掴みそうな勢いで関に喰って掛かる松谷を、結城キャプテンが諌めた。
 キャプテンの一喝で静まり返ったマウンドとは対照的に、レフトスタンドが騒然となる。
 そんな中、アナウンスの声をかろうじて拾った俺達は、今度こそ本当に言葉を失くしてしまった。


『 ピッチャーが、田島君から成瀬君に代わります 』



 ―――俺、耳がおかしくなったのか? 今、ピッチャーで名前が呼ばれたような……。


 他の野手が、俺と関とを交互に忙しなく見遣る。その視線にも気付かず、あんぐりと口を開け、放心状態で突っ立っていると、
「どういう事だ?」
 俺同様……それ以上に驚き、納得できないという表情で松谷が関に詰め寄る。その勢いに気圧された関が、しどろもどろに説明を始めた。
「あー…と、ベンチでさ、閃いたんだ。あと残り三回切ってるだろ? なら北斗のが絶対マシだ、そう思わないか?」
「なっ…!? 馬鹿言うなッ! 何でそんな事……が……」
 猛暑の中、長時間守備についていた上に激昂したせいか、いきなり目の前が暗くなり、眩暈が起きる。
 足元がふらついたらしく、よろけた俺の身体が、結城キャプテンの腕で支えられた。

 ……恥ずかしい。
 この大観衆の中、ひっくり返らなくてよかった。

「おい、大丈夫か?」
 心配そうな声で顔を覗き込まれ、激しく脈打つ胸に手を当て、キャプテンに礼を言いかけて、その瞳に、さっきの……駿が戻ったのかと、微かな期待を抱いてベンチを見た俺と、同じ色を見た。
 もしかして、関の提案を受け入れようとしているのか!?
 まさか!
 驚いて他のメンバーに視線を巡らすと、松谷以外の全員が揃ってキャプテンと同じく、希望の光を見出した顔で俺を見ている。

 そんな、縋るような目で見ないでくれ! 

 心の中で叫んで、はっとした。
 田島には「一年に頼るな」、なんて偉そうな事を言っておいて、矛盾しまくってる。
 俺の方こそ、いつの間にか駿を心の拠り所にして頼っていた。その事実に愕然とする。
 恐るべきカリスマだ。
 どうして……田舎の同級生達は、あんなに存在感のある駿を追い詰めるような真似ができたんだ? 

 ふとそんな思いが頭をよぎり、一瞬、自分の置かれた状況を忘れそうになる。
 それを引き戻すかのように、関がグラブを俺の胸に強引に押し付けてきた。

 改めて間近で見ると、それは駿がさっきまで使っていたグラブだった。

「これ、北斗が見立てたんだろ?」
「――あ、…ああ、そうだ。けど……」

 確かに駿のグラブは、俺が選んだ。自分が使っているものと同じメーカー。
 この春、渡辺達が野球部に入部してすぐに、グラブを買いに行くからどこかいいスポーツショップを教えて欲しいと頼まれ、ついでに半分強引に付き合わされたんだ。
 この近くにそのメーカーの品を扱っている店はなく、隣の街までわざわざ出かけ、実際手にはめてみて、これがいいと勧めたものだ。

 山崎以外の野球部員は、駿が入部した経緯について、俺が駿の投手としての才能に惚れ、瑞希の同郷でもある彼を、強く勧誘したと思っている。
 まるきり外れているわけではないが、他人への警戒心が人並み以上に強い駿が、俺には初めから懐いていると映ったらしく、何かにつけ俺と駿とを関連付けてくる。

「なら、俺や田島のより、色んな意味でこれが一番しっくりくるよな」
 そう言うなり、俺の左手から野手用のグラブを抜き取ってしまった。「もう放送も流れたし、逃げられないぜ、北斗」
 俺に詰め寄るその顔は、試合に出場できなかったうっぷんを晴らしているのか、異様に生き生きしている。
 ひょっとして、ベンチの中がごたついていたのは、このグラブを探していたからか?
 もしそれが事実なら、これは……絶対仕組まれた。
 俺が拒絶できないように、監督に先に選手の交代をさせたんだ。
 ベンチが急に騒々しくなったのも、関がそんな戯言(たわごと)を言い出したせいだったのか。

「……お前、もう少しまともな事、思いつかないのか?」
 持ち主のいない間にグラブを勝手に持ち出して、しかも俺に押し付けるとは……。
 知能犯なのか向こう見ずなんだか、とにかく破天荒な関をじろっと睨み付けてみたものの、俺も脱力しまくっていて、迫力なんかかけらもない。
「これが最善の方法だ。お前が投げて二十点入れられても、俺達満足だ」
「俺は全っ然、満足しないぞ」
 第一、そんな事を二年のお前が決めるな! と言いたい。
「けど登録してる選手の中で投手の経験があるのは北斗だけだ。しかもかなり上手い」
「上手くなんかない。それに四年も前の事だ」
「スランプでショートの守備に就くより、ピッチャーやってくれた方がチームに貢献できるぜ」
「肩もできてないのに、投げれるわけないだろ」
「そんなの百も承知してるさ。ところがだ、過去にも今の北斗と似た状況で、いきなりマウンドに立った野手はいる」
 …相変わらず、高校野球にだけは詳しい奴だ。これまでの戦績、全部頭に入っているんだろうか。
「――で、勝ったのか?」
「いや、負けた」
 あまりにもあっさり告げられた結果に、思わず大きく頷いて、その意味する事を察し、天を仰いだ。
「……救いはないのか」
「救いは北斗自身だ。今のまま田島に任せるより、希望はある」
「確かに! 言えてる」
 グラブを叩いて同意する田島を、今度は本気で叱り付けた。
「お前が言うな! 大体投手ってのはデリケート……」
「マウンドで喧嘩してる場合じゃないだろ」
 俺達の不毛な言い合いに、結城キャプテンが割って入った。「スランプで足を引っ張った分、名誉挽回の絶好のチャンスじゃないか」
「俺が挽回したいのは、守備でです」
「だが相原はいない。田島も、恐らく三順目は抑えられない。まして相原の後じゃ」
「なら俺だって一緒…いえ、それ以上に最悪ですよ」
「それでも! 北斗が投げるなら、ボロ負けでも悔いはない。なあ、柴田、高木」
「結城さん……」

 こんな場所で、先輩達の偽りのない気持ちを聞いても、応えようがないじゃないか。

 途方に暮れ、力なく見返すと、キャプテンが口元に笑みを浮かべ、俺にだけ聞こえるように耳元で囁いた。
「ならこうしよう。お前、もうキャプテンしなくていい。だから、今だけピッチャーやってくれ」
「はあ!? そんな勝手な……」
 ついさっき、その自覚がようやく芽生えてきたと実感していたのに。
「うだうだ言ってねえでさっさと投球練習始めろ、リズムが狂う」
 俺の代わりにショートの守備に就く迫田さんが、有無を言わせない強い口調で、さっさとけりをつけかける。
「無茶苦茶だ」
「いいじゃないか、どうせイレギュラーの出場だし。こんなハプニングも後になればいい思い出になるぜ」
「なるわけないだろ! 胃がけいれんしそうだ」

 無謀な走塁で怪我して、試合に出られなくなったのは関だ。
 俺がこんな目に遭いかけているのもこいつのせいだ。その当人にだけは言われたくない!

「なら監督に救急車呼んでもらっといてやるよ。だから気楽に行け、北斗」
「ちょっ……待てよ、関!」
 俺のグラブを抱えたまま、関がベンチに走って戻る。その隙に、他の野手もさっさと守備位置に散ってしまった。


 一人残った山崎に、呆然と問いかけた。
「―――孔太、…俺、悪い夢……見てるのか?」
「さあ。けど、目は開いてるぜ」
 茶目っ気たっぷりに自分の目を指差して、ヘヘッと笑う。
「そうか、…やっぱり」
「でもさ、俺は今、最ッ高に幸せな夢、見てる気分だ」
「はあ?」
 この状況をいい夢だなんて、冗談だろ。「――お前なあ、なんでそんな呑気なんだ」
「いいじゃん、何だって。北斗の球を甲子園のグラウンドで受けれる。それだけで俺はもう、思い残す事、なんもない」

 手にしたミットから少し汚れた硬球を出し、俺の持つ駿のグラブの中に落とすと、スキップでもしそうな足取りでホームに帰っていった。

 ―――あいつ、この試合……捨てたな。

 しかし、励ますつもりで集まったはずのマウンドに、自分一人取り残されるとは――悪夢でも、ここまで悲惨なものはないだろう。
 自分の定位置、ショートに目をやり、情けなさに唇を噛んだ。

 ……なんで俺、あそこにいないんだろう。
 どうしてあの場所で、全力のプレーができなかったんだ?

 離れてみて初めて、そのポジションの大切さが、激しい後悔となって胸の中に押し寄せる。
 自分でも気付かない内に、こんなにあの場所に愛着が湧いてたんだ。
 松谷や結城キャプテンとの連携プレーや、走者を刺せた時の爽快感。   
 だが俺にとっての一番は、インパクトされたボールの行方を読み、それを掴み取る瞬間。その為には、あの距離が必要不可欠なんだ。
 マウンドだと、バッターに近すぎる。


 地面に目を落とし、汚れてなお、一層強く存在感を放ち続ける、ピッチャーズ・プレートを見つめた。



 ……帰って来い、駿。
 俺にこの場所は、あまりに不似合いだ。



 強張った足を無理やり動かして、プレートの傍に一歩近づく。と、本当にガクッと力が抜けて、片膝をついてしまった。


 ―――ハハ。完璧、竦んでる。
 ここから立ち上がる事、できるんだろうか。今すぐにでも、担架を呼んでもらった方がいい気がする。

 一年足らずの間に、二回も腰抜かすような経験するなんて……笑える。いや、三回か。

 目の前にあるわずか数十pの板に、縋る思いで手を伸ばして、剣道の試合場の中心にあった開始線を思い出した。


 瑞希、お前ならこの窮地に、どうする?

 ……聞くまでもないか。
 きっと相手だけを見つめて、真正面から立ち向かって行くんだろう。

 その強さを、すぐにでも分けて欲しい気分だ。




『大丈夫。…北斗は、大丈夫だよ』



 耳に、聞こえるはずのない声が届いた。


 ―――そら耳……か。

 けど、その声を俺は聞いている。


『加納君が見守ってるから』
 

 手をのせたプレート。
 必ずこの場所に戻って来ると、加納が願いを託した場所だ。


『北斗の投手としての強みは、抜群のコントロールと安定感だって』
 

 瑞希から聞いた加納の言葉が、次々と俺の脳裏に浮かび上がる。


『忘れるなよ。加納君は絶対、お前の試合見るから』
 

 もし、それが本当なら。


 加納、俺に力を……マウンドに立つ勇気を―――。






 プレートにのせた右手を、固く握り締めた。

 この手で自分の頭を殴りつけたのは、ついさっきの事だ。
 あんな想いも、二度としたくない。



「北斗――」

 微かに届いた山崎の声。
 顔を上げると、マスクを被りもせず、心配そうに俺を見つめている。

 ……そんな顔するなら、最初から俺なんか当てにするな、バカ野郎!

 心の中で悪態をつき、憮然として睨み付けた。
 だが、あいつの顔を見て、少し力が戻ってきた。
 一方的に頼られると逃げ出したくなる。が、何も言わず不安げな顔をされると、どうにかしてやりたくなる。
 俺が孔太にピッチャーを辞めると言い出せなかった原因は、実は俺の中にあった。

 グラブをそっと地面に置いて、スパイクの紐を締めなおす。
 屈伸するように二、三度足を曲げ伸ばし、へたり込んだのを誤魔化した。
 突然フィールダーからピッチャーにさせられたんだ。これくらいの時間、使わせてくれ。
 田島なんか元々投手のくせに、気持ちの切り替えに1イニング丸ごと使ったんだ。

 身体以上に心のついてきていない自分を正当化しつつ、伸ばした膝に手を突っ張り、準備運動の振りをしていて、瑞希が藤木さんに倒された後、ぴょんぴょん跳んでいたのを思い出した。

 どんな効果があるのかわからないが、何でもいい、とにかく気持ちを落ち着けたかった。
 あの時の瑞希を真似て、軽く二、三度跳んでみると、本当にストンと両肩の重みが落ちた――気がした。
 胸の動悸も徐々にだが治まってきた。
 ついでに右腕を大きく回している内、投手をしていた四年と数ヶ月の記憶が……身体に染み込んだ感覚が、不思議と蘇ってきた。

 右腕を前後にぐるぐる回すのは、マウンドに上がる前の俺の癖だ。
 先日、梛を相手に投げたのがよかったのかもしれない。
 そういえばあの時、優に五、六十球は投げさせられた。
 あと残り、全部俺が投げるにしても、あれくらいの球数で終わる事ができたら、取り合えずスタミナ不足の心配はしなくてよさそうだ。


 その前に、守備でも体力は十分消耗していたが、それすら思いつかないほどに、俺の頭の中は、この現実を受け入れる事だけで一杯一杯だった。



 この後の試合展開がどうなるのか……
 そんなの、こっちが訊きたいくらいだ。


 嫌味なほどしっくりくる駿の投手用グラブを左手にはめ、マウンドに立つ俺は、
 友人と遊びに出かけた海で、孤島に一人取り残され、来ない救援を待つ遭難者、そのものだった。




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