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作品名:星を道標に  \ オーバーカム 作者:ナナセ

第5回 試練のスタジアム U 後編
 

               〜 試練のスタジアム U 後編 〜



 ノーアウトのまま、ランナー一、二塁。
 ピンチのはずなのにそれと感じないのは、やはり駿がマウンドにいるから……だろう。

 ランナーがすかさず大きくリードを取る。駿が振り向いて二塁に牽制球を投げた。
 松谷が受けて足元にグラブを出すが、頭から突っ込んだ走者の手の方が、僅かに早かった。
 ずっとピッチャーをしている奴らに比べたらまだまだだが、県大会の時のぎこちなさはなくなっている。

 牽制球を取り入れると、内野手とのボールのやり取りで自分自身落ち着いたり、相手に流れが行くのを断ち切る手段にもなる。
 何より、効果的に使えれば、足を使った機動力を封じる事ができる。
 駿ほどの球速とコントロールがあれば、来年はランナーにとって脅威にもプレッシャーにもなる。大きなリードはできなくなるだろう。
 また一つ、駿を育てる楽しみができた。

 敵にとっても大事なチャンス、潰すわけにはいかないと思ったのか、ランナーのリードが僅かに少なくなる。余裕で戻れる距離。
 それを目視した駿が、セットポジションから山崎のサインを見た。

 一球目、バントではなく、打つ気に満ちた打者のタイミングをずらすスローカーブが、ストライクコースぎりぎりに決まった。
 二球目、相手の裏がかけたのか、同じくボールになるスローカーブに手を出しかけたバッターが必死に止める。だが、累審にストライクを取られた。
 2ストライク、ノーボール。追い込んだバッテリーが三球目に選んだ球は、インコース低めへのストレート。
 二球続けて遅い球を見せた事で、速球への対応が遅れた。
 手を出さず見送った球。だがそこは、今日のストライクゾーンだ。
 毎回ストライクとボールがばらばらに判断されるより、変わらない方がいい。それだけでこの主審の信念が伺える。敵、味方平等にジャッジする事が、審判にとっての最重要項だ。

 毎回変わらず、ストライクの判定を下した主審が、打者にアウトを告げる。
 思惑通り六番打者を打ち取って1アウト。
 ランナーの進塁を覚悟していた俺達にとっては、願ってもない結果だった。


 走者一、二塁のまま、七番の門倉さんを迎える。
 彼のバッティングセンスには定評がある。
 ピッチャーという立場と、室生さんをはじめとする選手層の厚さ、それに初試合で途中当番だった事が、今回七番という位置に席を置く理由だが、西城にいればクリーンナップになるのは間違いない。それに最初から先発で出ていたら、また違った打順になっていただろう。

 選球眼のいい彼に、誘い球も見せ球も通用しない。ボール球には絶対手を出さず、自分の好みの球を待つ。
 2‐3、互いに後の無くなった六球目。
 満塁を避けたい俺達の心理などお見通しなんだろう。ストライクゾーンに入ってくるカーブを、体勢を崩されながらもバットに当ててファールにした。
 スタンスはストレートの速球狙いだった。それなのに裏をかいた変化球をカットされ、こちらが圧倒的に不利になる。
 山崎はどう出るか。

 その山崎が、いきなり立ち上がった。
 駿の元に駆けて行き、耳元に短く何か告げる。駿が小さく頷き、それを確認して、俺達野手に向かいマスクを右手に大きく腕を広げた。
「しっかり守ってこうぜッ!」
 スタンドのざわめきにも負けない大声で、内、外野手全員に呼び掛け、ホームに戻る。
 一体何を投げるのか。と、駿が振りかぶった。
 虚を衝かれ、少し遅れてランナーがスタートする。
 ワインドアップで投げたボールが、門倉さんにミートされる。
 ライトスタンドに切れていく球は、駿のパワーに押されているようにも見える。
 その次もワインドアップ。
 山崎の奴、盗塁は覚悟の上で、門倉さんを打ち取る事だけに専念したようだ。
 想像以上に手ごわいバッターを前に、六番、七番で勝負、と言った責任を取るつもりなのか、それとも駿の全力投球なら、門倉さんを打ち取れると判断したのか。
 敬遠して満塁策は、初めから除外していた。一アウトで満塁は、分が悪すぎる。
 どちらにしても西城にとっては苦肉の策、『肉を切らせて骨を断つ』、的な、後のない選択だ。
 だが、確かにそれが最良の策とも思えた。

 空振りすれば、ランナーは進塁するかもしれないが二アウト。反対にバットに当たれば、門倉さんのパワーなら追加点は必死。ボールなら満塁。
 ただし、バントやスクイズの可能性もある。
 二点のビハインド、この絶好のチャンスに一点でも追加点が欲しいはずだ。
 何より次の一点をどちらが入れるかが、今後の展開を左右する大きなターニングポイントになる。
 この回は間違いなく、その大事なイニングだ。
 ただ、バッターボックスに立つ門倉さんからは、小技を仕掛けてきそうな気配は少しも感じられなかった。
 駿の球を見極め、打ち返す事を純粋に楽しんでいるように見える。

 九球目、球速145q/h以上の球を、やはり門倉さんは当ててくる。
 ライトの白線ぎりぎりに強烈な当たりのライナーが飛んでいく。
 塁審のファールの合図を確認して、飛び出したランナーがベースに戻り、またリードを繰り返す。
 もう駿はランナーを見ていない。門倉さんに自分の全てをぶつけていた。
 一球一球に、球場全体が盛り上がり、期待を込めた眼差しを、ダイヤモンドの二人に注ぐ。
 150q/h近いスピードガンの表示を連発する駿に対する驚きと、その球を見極め、当てる門倉さん。
 意地と意地とのぶつかり合いが、五万人近い観客の心を、大きく揺さぶっていた。

 帽子を取って額の汗を拭いた駿が、ロージンバッグに手を伸ばし、入念に滑り止めをつける。同時に門倉さんがタイムを取り、バッターボックスから出て、深く息を吐いた。

 極限まで張り詰めた緊張感の中、試合が再開される。

 その直後。
 十球目の球が、門倉さんのバットの真芯に捉まった。
 快音を響かせ打ち返された硬球が、ノーバウンドで駿を襲う!

「避けろッ!!」

 喉が痛みを覚えるほどの声で叫び、瞬時にボールの軌道を頭に描く、最悪の事態を想定して。
 俺の声に反応したのか、前方で右腕を庇い身体を傾けかけた駿の、むき出しになった左肩を、ボールがビュッと掠った。

 抜かれる! 

 直感で察し、持てる全ての力で走った。
 僅かに方向が変わり、少しだけスピードを殺されたボールが、それでも猛烈な勢いで二塁ベースに向かって飛んでいく。

 頼む、届いてくれッ!!
 抜けたら、駿が責任を感じてしまう!

 周りの歓声も、チームメートの声も聞こえない。
 夢中で走る俺の目には、真っ白なボールしか見えてなかった。 

 今まで何百回と繰り返してきたプレーの感覚が、全神経を覚醒させ、圧倒的なパワーとなって俺の身体を支配する。
 刹那、迷う事なく地面を蹴った。

 抜け…させるかッ!

 左腕を限界ぎりぎり、それ以上に伸ばす。
 その先にあるのは、俺が手に入れる事を許された、たった一つの生きがいなんだ。

 バシッ!!

 確かな衝撃を左手の平に感じ、グラブを固く閉じた。
 地面に身体が叩きつけられる前に右手をつくと、勢いで頭から一回転していた。

 駿が投げてから僅か数秒の出来事。

 体勢を立て直した俺の目に飛び込んだのは、左肩を押さえ、マウンドにうずくまる駿の姿だった。

「駿ッ!」
 叫びながら駆け出しかけて、グラブの中に閉じ込めたボールの存在に気付いた。
 同じタイミングで、山崎の怒声が響く。
「セカンだ北斗ッ!」
 声と同時に振り向いて、二塁のベースカバーに入った松谷にボールを投げた。
 大きく飛び出していたはずのランナーがもうベース近くまで戻り、送球を見て頭から突っ込む。際どいタイミングだが、塁審の判定はセーフだった。

 思わず、泥で汚れた右手を固く握り、頭を殴りつけた。
 俺の馬鹿! 大事な場面でゲッツーし損ねるなんて、大失態だ。

 自責の念に駆られ、唇をきつくかみ締めて自分の愚かさを呪う。駿に気を取られたコンマ数秒が、絶好のチャンスを逃がした。

 そうだ、駿!
 アウトにできなかったのは仕方ない。だが、そんな反省は後だ。左肩を打球に直撃された駿の方が問題だ。
 再びきびすを返し、マウンドに走って行った。

 タイムを取った山崎と結城キャプテン、内外野手、それにベンチからも誰か走ってくる。
 その到着を待たずに、膝をついたままの駿の傍に屈んで状態を聞いた。
「駿、大丈夫か?」
「ええ、…すみません、避け切れなくて」
「謝るのは俺だ。せっかくの好機、潰した。それより球、酷く当たったのか?」
「掠っただけです」
 そう答える駿の額には、異常なほどの汗が浮き出ている。
 普段の駿は、どんなに激しい練習でも、滅多に汗だくになる事はない。
 それほど発汗する体質じゃないと知っているから、その汗が痛みの為のものか、門倉さんへの投球の疲労からか、見ただけでは判断がつかなかった。
「治療が必要だな」
 頭上で短く告げたキャプテンを見上げたのと同時に、駿が抗議の声を上げた。
「大丈夫です! 投げれます」
 必死に訴える駿の左肩を、結城キャプテンがわざと強く掴む。その荒々しさに目を瞠った俺の前で、駿が顔を背けた。
「ッ!! ……っ」
 激痛が走ったのか、思わず漏れそうになった呻き声を、歯を食いしばり口の中でかみ殺す。そんな姿に、何も言えなくなった。
「硬球をなめるな。当たった直後でそれだ。放っていたらもっと酷くなる」
「でもっ!」
「あの打球が当たったなら、治療が最優先だよ。それに時間稼ぎにもなる。その後の事は、監督の判断に委ねるしかないだろ?」
 冷静な柴田副キャプテンの柔らかな言葉が、駿の昂ぶった神経をさり気なく静めた。
「―――はい。…すみません」
「門倉を打ち取ったんだ。謝る事じゃない。それより早く治療してもらっといで」
「はい」
 促され、駿がすっくと立ち上がった。

 結城キャプテンらしいストレートな行動で無駄な言い合いをせずにすんだが、男らしさとは無縁の見かけに反して、あまりにも豪胆な解決方法に、二年の間では苦笑いが浮かぶ。
 少しも動じずフォローを入れた柴田さんだが、なぜ彼が副キャプテンに任命されたのか、部随一の常識派というだけではない事を、ここに来て初めて思い知らされた気分だった。

 成り行きを見守っていたらしい伝令係りの迫田先輩が、野手の中に入る。
 入れ違いに、俺達に軽く頭を下げ、レフトのダッグアウトに向かって駆け出しかけた駿の足が、ピタッと止まった。
「駿? どうし……」
 言い掛けて、ようやく気付いた。まともに走る事もできないほど痛むんだ。もしくは振動で打撲に響いたか。
「キャプテン! 俺、付き添ってきます」
「ん、ああ、そうだな。頼む」
 キャプテンとのやり取りを聞いた久住が、あからさまにホッとした顔をする。どうやらこいつも駿のやせ我慢に気付いていたようだ。
 誰より付き添いたかったはずだが、俺達の手前、口に出さなかったのか。

「行こう、駿」
 促して歩きかけた俺の頭に、背後からポスッと帽子が載せられた。
 振り向くと、松谷が深刻な場面に不似合いなほど明るい表情で立っている。
「あれ、落としてた?」
「ああ。思いっきり派手に、な」
 そう言われ、さっきの捕球後の一回転を思い出した。
 まさか甲子園のグラウンドで、タンブリングの真似事をするとは思いもしなかった。
「サンキュ」
 載せられた帽子を被りなおし、再び歩き出す。
 俺達の後姿に向けられたチームメートの視線は、安堵と不安とが複雑に混じり合い、微妙な色合いをかもし出していた。

 そんな仲間の心境など露ほども知らず、駿の歩調に合わせ並んで歩きながら、その横顔を盗み見て、こっそりため息を吐いた。

 俺の気持ちは、チームメートの心境とはかけ離れた、遠い所にあった。


 ……人の気持ちは複雑だ。
 久住には精神的にも随分打ち解けてきたようだが、駿が覆っているバリアは、まだ取り去られていない。
 人と深く関わる事を恐れるのは、同級生に手酷く裏切られたからだろう。
 瑞希の友人達とは全然違う。
 仲たがいしてからもずっと瑞希を気遣い、苦しい胸の内を隠して、ひたすら見守り続けていた孝史達とは、比べる価値もない。
 付けられたその傷は、駿の方が遥かに深く残酷だ。そして傷付けた当人達には罪悪感すらないのかもしれない。
 いつか、自分達の犯した罪に気付く時がきたなら、駿の心の闇もまた、昇華されるんだろうか? 
 それとも―――

 肩を庇う素振りもせず、グラブを抱え黙って歩く駿を見ていると、田舎での同級生との関係が、容易に想像できる。
 きっと真っ直ぐに姿勢を正し、毅然と生きてきたんだろう。
 そんなところも反感を買う一因になったような気がする。
 だが、俯くわけにはいかなかった。唯一の味方である母親を守る為に。
 俺にはその気持ちが……そうならざるを得ない心境が、手に取るように分かる。
 敵は同級生だけじゃない、自分達親子を取り巻く、周りの人間全てだったんだ。


 ダッグアウトに入るなり駿のユニフォームとシャツが脱がされ、ボールの当たった箇所の状態を、監督と駆けつけてきた医師が入念に調べる。
 打球を受けた部分が一目でそれとわかるほど腫れ上がり、横で見ていた俺も思わず息を呑んだ。

 結果、腕を上げるのも困難なほど、酷い症状だと知らされた。最悪ひびでも入っているのかもしれない。
 すぐさまスプレーで冷却し、応急処置を施しつつ、和久井監督が告げた。

「病院に行った方がいいでしょう。念の為、レントゲンを取ってもらわないと……」
「監督っ!」
 いきなり駿が大きな声を出し、ベンチにいた十人ほどの選手を驚かせた。「お願いです、この回だけ、投げさせて下さい」
「そんな事、お願いされるまでもない。私だって投げて欲しいですよ」
「なら――」
「肩の状態がもう少しマシなら、ですが」
「大丈夫です! あと一人だけ。それ以上無理は言いません」
「一人で終われるんですか? 君のわがままで一気に逆転される可能性もあるんですよ」
「それはッ、けど……俺がマウンドを降りたら誰が投げるんですか? 俺の代りは……」
「もちろん田島君です。他にいないでしょう?」
「はあっ!?」
 妙に緊張感のない声が上がり、ダッグアウトの中の緊迫した空気が、一瞬和らいだ。
「俺…っすか?」
「他に誰がいるんです? まだ完治してない関君? それとも、選手登録もしてない夏目君だとでも?」
「いえ、けど……」
 いつも穏やかな監督の厳しい声音に、田島が口ごもる。
「投手が負傷した場合、他に控えがいないなら、守りに就かずベンチに戻った投手でも、再びマウンドに立てます」

 そうだ。駿が投げれないなら、後は田島に任せるしかない。そう気付いて田島を見ると、非常に不安そうな表情で監督を見つめ返している。
(そんな顔、駿の前でするな!)
 と思っても、せっかくのチャンスに併殺し損ねたのは俺だ。
 田島を非難する資格もない俺が口を挟めるはずもなく、それを目撃した駿の顔色も、打撲の痛み以上に益々冴えなくなっていく。
 田島も駿の症状を見るまで、それほど深刻な状態だとは思いもしてなかったんだろう。
 今ここで、いきなり投手の交代を言い渡された田島の心拍数は、一気にマックスになったはずだ。

 最初から駿の後のマウンドには立てないと豪語(?)していた奴だ。与えられた試練は、関の怪我が発覚して、急きょ決勝戦で先発を命令された時の比じゃない。
 いや、あの時も試合開始直後は、加納と最後まで投げ合わなければいけない状態だった。
 思いがけず駿が救世主になってくれたが、もし彼がいなかったら、たとえどんなに点差が開いても、田島に頼るしかなかった。

 それほど、この夏の西城の投手陣の状況は厳しいものだった。

 その田島の返事より先に、応急処置を終え本来なら病院へ直行するはずの駿が、再び監督に向かい頭を下げた。
「監督、無理を承知でお願いします。後の回は田島先輩に任せます。けど、この回だけは俺に行かせて下さい。お願いします」
 珍しく食い下がる駿を、半ば唖然と見守った。
 さっきの田島の不安げな表情を見てしまったから、というわけではない気がする。もっと違う何かが、駿を駆り立てていた。

 入部して四ヶ月、自己主張はおろか、同級生以外 他の先輩達ともろくに会話しないような奴が、成り行きとはいえ監督に直訴するとは……。
 こんな激しい一面が駿の中に隠されていたなんて、思いもしなかった。

 驚きは監督も同様だったんだろう。途方に暮れた顔で逡巡した監督が、どういうわけか隣に立つ俺に話しかけてきた。
「成瀬君、どう思いますか?」
「えっ、俺?」
「ええ。いきなり投手交代させられる田島君と、負傷した相原君、どちらにこの回任せるべきでしょう?」

 それを、俺に訊くのか!?

「……そんな目で見ないで下さい」
 思いきり非難を込めて見返した俺は、苦笑を漏らした監督にやんわり抗議された。「別に、成瀬君に責任を押し付けようなどとは思ってません」
 心の内をあっさり読まれ、咄嗟に俯いた。確かに今、そう思った。
「ただ、私だって人間です。こんな離れたところから見ているだけでは、グラウンドに立つ選手の全てを理解する事など不可能でしょう? だから、実際プレーしている君に、聞いてみたくなったんです。この回、どちらの投手ならさっきのようなプレーを見せてくれるのか、ね」
「さっきのプレー?」
 …って、ダブルプレーし損ねた事だろうか。そんなもの、頼まれたって二度とごめんだ。
 知らず目付きが険しくなったらしい。目を細めた監督が、自分の頭を指差した。
「帽子、落としたのにも気付かないほど、集中できてましたね?」
「え、…いえ。あれは、駿…相原の事が気になっただけで……」

 そうだ、気を取られたから、好機を逃した。俺のミスだ。『集中』とは全然違う。
 本当に集中していたなら、今頃西城の攻撃に移っている。

「そうですか。なら、君はまだ眠ったままなんですね」
「は? 起きてますけど」
 瑞希じゃないんだ、こんなところで寝てたまるか。
「たとえですよ。全く、とぼけるのが上手いんだから」
「…………」
 とぼけているのは監督だろう、と思う。どうもさっきから監督のペースに乗せられてしまって、試合とは違った意味で非常に疲れる。
「監督、俺からもお願いします!」
 監督とのかみ合わない会話に割って入ったのは、最悪の状況に片足を突っ込まされた田島だった。
「いきなりはマジ無理っす。相原がこの回だけでも行けるなら、その間に気持ち切り替えますから」

 どちらも必死だ。
 両方の意見はぶつかっていない。六回残りのマウンドを駿に托す事を、二人共が希望している。
 問題は、駿がマウンドに立つ事が可能かどうか、だ。

 ズボンの中に上着の裾を押し込む駿に目を遣って、「困りましたねぇ」と、低い天井を仰ぎ盛大なため息を吐いたのは監督。
「大丈夫です。あとアウト一つ、俺の手で取りたいんです」
 服装を整え、今にも飛び出して行きそうな勢いで、ためらう監督に詰め寄る駿。
 自分のグラブを掴み、だが…マウンドではなく、肩慣らしする相手を同級生に頼む田島。
 三者三様、いや、中心人物である二人のベクトルは、完全に同じ方向を示している。

「監督、俺、相原に任せてやりたいです」
 監督以上に大きなため息を吐き出して、偽りのない胸の内を晒した。「俺達もそのつもりで守ります。けど一点でも取られたら、即田島に替えて下さい。相原はすぐに病院行きだ。駿、それでいいな」
 有無を言わせず言い切って駿を見ると、驚きに目を瞠っていた駿が、「はい」と、瞳を輝かせる。
 俺達のやり取りを聞き、早々にブルペンに行きかけた田島を、あえて呼び止めた。
「田島も、少しでも早く気持ちを集中させろ。一年に頼るなんて情けないぞ」
「! …ッス」
 振り向いた田島も、駿と同じに驚いた顔を向ける。無理もない、今まで自分から誰かに意見する事など、一度もなかったんだ。
「悪い北斗。試合、頼むな」
 希望の光を見出したように、瞳に明るい色を浮かべ、慌しくベンチを出て行った。

 田島の残していった一言が、俺自身の上にも重く圧し掛かってくる。
 一番肝心な事を、あいつはやっぱりわかっていた。

「――なかなか、思い切った判断をしてくれましたね」
 横に立つ監督に言われ、我に返った気分で監督を見やった。
「あ、勝手な真似してすみません」
「いえいえ、私の手間が省けました」
「………」

 もしかして、俺はこの監督の策に、まんまと嵌められたのかもしれない。優柔不断を装い、俺の本心を引き出したんじゃないだろうか?
 だが、そんな事はこの際どうでもいい。
 無謀かもしれないが、俺は駿の望みを叶えてやりたい、それだけだった。
 その為には、まず俺達守備陣がしっかりしないとだめだ。
『スランプ』なんて甘えた事を口にしている場合じゃない。その事を田島は言い置いていったんだ。

「相原君、この回だけは頼みます。ですが、くれぐれも無理はしないように……なんて言葉、言うだけ無駄ですかね」
 そんな軽口を言いながらも、瞳では駿を気遣っている。
 それがわかるから、駿も一言も発さず、ただ感謝の意思を込めて深く頭を下げた。


 ベンチを出て、マウンドに戻る駿に拍手が起こる。
 同じく、心配そうにしていた野手の顔に、安堵の色が浮かんだのを見てしまった俺は、複雑な気分でその輪の中に入っていった。

「よかった、続投できるんだ?」
 柴田副キャプテンが、あからさまにホッとした笑顔を見せる。
 ここに集まった全員、田島のブルペン行きが万一の時に備えてのものだと誤解している。ただ一人、気遣わしげな顔で駿の傍らに行った久住以外は。
「いえ、この回だけ特別に許可をもらったんです。駿の強い要望と、…肝心の田島があれなんで」
 そう言って、ブルペンに視線を移した。それだけで事態の九割方、飲み込めたらしい。
 結城キャプテンが、久住と言葉を交わす駿にそっと目を遣り、「そっか」と、短く答えた。
「ならこの回、相原と心中だな」
「そんな事させないっすよ」
 力強い山崎の言葉で、フィールダーが活気付いた。
「そうそう、相原の力投であんま活躍してないから、身体が鈍(なま)りかけてたんだ」
 今日のゲームのムードメーカー、松谷らしい台詞に同調して、駿を励ます声が掛かる。
 それらを聞きつつ山崎の傍に行き、耳元に囁いた。

「左肩、かなり酷い状態だ」
 言葉もなく俺を見返した山崎の顔色が変わる。「どこまでもつかわからない。点が入った時点で交代だ。パスも受けれるかどうか……」
 言葉尻を濁した俺だったが、山崎もその事は言われるまでもなく察したんだろう。「ラジャ」と、小さく頷いた。

 駿が最後の砦の西城だ。この回以降マウンドに立てないとなれば、試合の行方はおのずと見えてくる。

 ようやく肩の荷を下ろせたと感じたばかりだったのに、山崎の意気消沈した表情を目にして、口から勝手に言葉が零れた。
「――孔太、俺の所に」
 その意味を正確に読み取った山崎が、あんぐりと口を開け、目を瞬いた。
「…簡単に言うなよぉ。第一お前、スラン――」
「大丈夫…かどうかわからないけど、やるしかないだろ。それに――」
 言いあぐね、言葉を切った俺だが、見返した山崎に「何だよ」と、怪訝な顔で促され、しぶしぶ本音を口にした。
「…さっきのミス、取り返したいんだ」
 憮然とした口調になったのは、こんなところで自分から言いたくなかったからだ。
 だが、自身の失策をあえて口にする俺の気まずさも、挽回するチャンスが欲しいと思う気持ちも、長い付き合いの山崎にはしっかり伝わったらしい。
 いつもの人懐っこい笑顔をほんの少し覗かせて、俺の肩を叩いた。
「――了解」
 小さく返事を返し、駿と野手に呼び掛けた。「できるだけレフト方向に打たせるから、守備陣、そのつもりで頼む」
「おう。やっといつもの西城らしいパターンになったか」
 レフトを守る高木さんに言われ、山崎が軽く頷いた。
「相原、あとアウト一つだ、頑張れ。後の事は俺達に任せろ」
 駿に掛けた結城キャプテンの声を合図に、野手の輪が解かれる。
「はい」
 力強く返事を返す駿に、山崎が手にしていたボールを握らせた。
「どんな球でも受けてやる。安心して思いっきり投げろ、駿」

 いつか聞いたことのある台詞。

 駿にはそれがいつの事だったのか、すぐにわかったようだ。
 緊張した表情の中、はにかむような笑顔を浮かべ、白い硬球を固く握り締めた。




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