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作品名:星を道標に  \ オーバーカム 作者:ナナセ

第2回 試練のスタジアム T 前編
 

               〜 試練のスタジアム T 前編 〜 



 初めて訪れた四日前の西宮の空は、少し霞み、全体にぼんやりとした印象を受けていた。

 なのに、楽団の奏でる曲に合わせ入場した甲子園球場は、練習でここに来た時以上に芝の緑が際立って、すっきりした視界とのギャップに、ほんの少し戸惑った。

 今日の晴天を約束するかのように、真夏の刺すような日差しが、すでに球場全体に降り注いでいる。
 爽やかさなんて微塵もない。もうそこは三十度以上の熱帯と化していた。
 何より、グラウンド全体を取り囲む客席と、それを埋め尽くす何万の観衆が、球場の熱を一層引き上げる。
 滅多に動じる事のない俺でさえ、思いがけず全身が痺れるような感覚に襲われ、手の平で胸を押さえつけた。

 開会式を見ようと集まった人の数、およそ四万人。ほぼ満席に近い。
 恐らく初日の今日、開会式に加えて昨年の優勝校、明峰高校の試合がある為、観客も膨れ上がったんだろうが、対戦相手である俺達としては全く喜べない、というのが本根だ。
 加納が出ていたら、間違いなく見応えのある投手戦になっただろうが。

 そんな事を思い、細く息を吐き出した。
 弱気になるなんて、らしくない。どっちにしろ俺達は西城らしい試合をすればいい。
 そこで、また溜息だ。
 ……大丈夫だろうか? 
 実際のところ、不安でしょうがない。
 観客は……まあいい。試合が始まればそんな事は忘れてしまえる。だが自身のスランプは自分にもどうしようもない。
 何も考えず、ただ来たボールを捕球する。それだけに専念するしかない。


 一人堂々巡りしながら歩いている間に、全選手が整列していく。

 緊張と興奮がない交ぜになった舞台裏から、活躍の場であるグラウンドに並んでいく、各県、各校の代表選手達。
 ここに集まっている千人近い高校球児で、こんな情けない事を考えているのは恐らく俺一人だろう。
 厳しい練習に耐え、胸を張ってこの地に乗り込んできた奴らばかりだ。
 黙々と歩くその姿にさえ、誇りと、地元を制し勝ち上がってきた確かな自信がみなぎっている。
 今の俺達に足りないもの、だ。

 この中に、野球界の未来を担う『ヒーロー』がいる。
 いつもなら楽しみなはずの彼らの出現が、俺には遠い世界の出来事のように思えてならなかった。



 午後三時、これで終わりにならないよう願いを込めながら、甲子園のグラウンドに、今日、二度目の足跡を残す。
 
 第二試合で戦った選手達が悲喜こもごもに、帰り支度をしている。
 入れ違いに、野球用のバッグを提げグラウンドに入ると、予想通り、最後の試合だというのに今朝と同じか、それ以上の観客が残っていた。
 ただし、真正面に見える俺達のベンチ側、レフトスタンドでは、観客の入れ替わりの為か、相当ざわついている。

 それでも、軽めの調整をしてダッグアウト前に集まる頃には、客席も落ち着きを取り戻し、県大会と同じ、西城のカラーへと変貌を遂げていた。

 夏の学生服に統一され、涼しげな白とブルーのメガホンで応援席の一角を爽やかに彩る学生達。
 吹奏楽部とブラスバンドのコラボは県大会同様、果ては黎明(れいめい)女子高の有志…だろうか、即席らしいチアガールまでいる。西城の女子は、頼んでもそんな真似絶対しない。
 最終の打ち合わせでもしているのか、階段のところに集まって、圧倒的に地味な西城高校の応援に、僅かながら華を添えていた。
 それ以外にも大勢の一般客で埋め尽くされ、ライトスタンドと遜色ないほど賑やかだ。
 その盛り上がり方は試合前にも関わらず、すでに県大会決勝戦並みだが、それを凌駕するほど盛り上がっているのが、俺の横に立つ当の選手達なのは、言うまでもない。

 しかし…この、スタジアムをぐるっと取り囲む客席にだけは、慣れるのに相当の努力がいりそうだ。
 ここが甲子園なんだと実感する、一番の違い。
 炎天下での試合も、ファールグラウンドの広さも気にならない。ただ、俺達を見つめる何万人単位の観衆を前にプレーする事の難しさを、試合開始直前になってひしひしと感じていた。
 集中したら忘れてしまえる、数時間前にはそう思っていたのに、毎回こなしてきたはずの試合前の練習でも、その一つ一つがこの場所ではまるで別物みたいに思えてくる。
 当然だ、こんな大観衆を前に試合した事なんかほとんどない。
 しかも相手は去年の甲子園優勝校。場数が違い過ぎる。
 唯一救いがあるなら、俺達は正規に出場しているわけじゃない、という面だろうか? 
 皮肉な事に、それが西城高校野球部の、経験値の少なさをカバーしていた。
『責任』や『プレッシャー』という、目に見えない重圧を受けずに済む。
 おそらく俺達には、誰も何の期待もしないだろう。
 それゆえ、精神面で他の高校よりは多少自由でいられた。



 そのせいなのかどうなのか、序盤から激しい打撃戦になり、早々に試合が動いた。

 県大会と同様、後攻になった西城のピッチャーは、もちろん田島だ。

 どんな心臓をしているのか、いつもと全く変わらない投球で、相手の一番打者を上手く引っ掛けさせた。
 中途半端に上がった打球がセカンド松谷のグラブにあっさり捕まり、一アウトにできた事で、どうにか硬さも出ず、守りのリズムに乗れた。
 二番打者のファーストへのゴロを柴田さんが捕球し、そのままベースを踏んで二アウト。
 だが、さすがにそう簡単に三者凡退にならないのが甲子園だ。
 クリーンナップの三番にセンターへのヒットを打たれ、次の四番打者、明峰高校キャプテンの室生さんにもレフト前に運ばれて、いきなり一、三塁のピンチになった。
 大いに盛り上がるライトスタンドだったが、五番をセンターフライに打ち取って、初回を何とか0点に抑えることができた。
 

 一回表の守備を終え、攻撃の準備、応援、それぞれ与えられた役割に就く俺達の耳に、一回裏の、相手高校のスターティングメンバーを読み上げるアナウンスが届く。
 西城の最初の攻撃を受けて立つのは、やはり門倉さんではなく背番号18、初めて聞く名前も知らない投手だった。
 何が得意なのか今一読めなくて、投球練習の一球一球にも仲間の視線が集中する。
 相手がエースピッチャーを出さなかったせいか、ベンチの中は皆、打つ気に満ちている。
 
 そんな中、和久井監督がおっとりと声を掛けてきた。
「どうでしたか? 甲子園のグラウンドは?」
 打者として出た一、二番をとばし三番打者のキャプテンに尋ねた。
「最高です。けど、広すぎてすぐには間隔掴めませんね」
 間違いなくこの回打順の来る結城キャプテンが、ベンチの前で身体をほぐしながら答える。
「そうですか」
 ベンチを保護する為の、カバー兼手すりに身体を預けていた監督が、ふんふんと頷いて振り向いた。
「成瀬君は?」
「え、別に。いつもとそう変わりないです」
 俺まで感想を聞かれ、面食らいつつも適当に答えた。
 少しだけ見栄を張ったのは、自分自身がいつもと同じだと思い込みたかったからだ。
 だが、そんな子供っぽい心理など、この監督はお見通しだったんだろう。心配そうな表情で見返され、「ただ…」と、口が勝手に動いた。
「ただ?」
「試合が盛り上がったら、お互いの掛け声が聞き取れないかもしれないですね」
 甲子園ならではのありがちなコメントを口にしつつ、自分の精神状態が普通ではない事を、まざまざと思い知らされていた。
 そんな俺の心の葛藤を酌んだのか、「そうですね」と、軽く相槌を打った監督が、自分の隣で同じように柵にもたれる山崎に、視線を移した。
「じゃあ山崎君は?」
「え、と、こんな大勢の観客に囲まれるのって初めてで、落ち着かないってか……」
「それにしては嬉しそうですが?」
「そりゃまあ、テレビで全国放送されてると思ったら、なあ?」
 反対隣にいた田島にニヤッと笑い掛ける。こいつは案外……いや、元々楽天家だ。
「では、できるだけマスクを外して、皆さんに呼び掛けて下さい」
「了解っす」
 意図的にか、天然か? 監督のそのアドバイスは効果覿面(てきめん)だ。
 こんな時、硬くならない為には、誰でもいい、試合の流れを呼び込む事。それができるのは、俺みたいなタイプには無理だ。だが山崎なら平然とやってのけるだろう。
「高木君は?」

 どうやら、グラウンドに立ったレギュラー全員に感想を聞く気でいるらしい。けど、他の皆が初めての甲子園をどう感じたのか、俺もすごく興味がある。
 レフトを守る三年の高木さんは、一年の高木の兄だ。
 最初で最後の甲子園、俺達とは比較にならないほど、その思い入れは強く、深い。
 そんな人のところに相手の強打者、四番の室生さんの初打球がいきなり飛んできたんだ。さぞ驚いただろう。

 そのプレーを思い出したのか、強面の顔に笑みが浮かんだ。
「ハハ、さすがに緊張したっす。けど、松谷のおかげでちょっと落ち着けたかな」
「ええ。彼らしい、足を活かした落ち着いたプレーをしてくれましたね」
 監督も笑顔を見せ、バッターボックスの横に立つ一番バッターに目を遣った。

 そうだった。最初は誰でも緊張する。だがあいつは飛んできたボールに機敏に反応し、グラブだけじゃなく、身体全体を使って捕球した。一番ミスの少ないセオリー通りの、手本のような捕球。万が一落球しても、すぐに対処できる堅実な守り。
 派手好きな松谷にしては珍しく控えめなプレーだったが、それが他の野手達の心を何よりも落ち着かせた。
 浮き足立っていた気持ちや、力の入りすぎていた肩が、少しだけ楽になった。

「柴田君は、どうでしたか?」

 ファーストの柴田さんは、二番打者の打球を上手く捌き、一塁ベースを踏んで二アウト目を楽々取ってくれた。さすがに西城随一の良識派だけある。
 いや、それは試合にはあまり関係ないのか?

「最高に気持ちいいです。身体も軽いし、ボールもよく見えてます」
「そう、それはよかった。皆、安心してファーストに投げられます。じゃあ久住君、客席に囲まれた外野はどうですか?」
「そうですね、後ろからあれだけ多くの視線を感じるのって初めてなんで、変な気分です」
「気になりますか?」
「いいえ――と言えるほどの度胸ないんで」
 そう答えておいて、悠然と笑う。
 こいつも……相当の器だ。「でも、それが甲子園なんだって、実感できます」
「でも、君は早ければ来年、遅くとも三年ではマスクを被りますから、今の内、そのポジションを堪能しておいて下さいね」
「監督〜! こんなとこでレギュラー争いの火種になるような発言、して欲しくないっす」
 泣きの入った山崎に、監督がすかさず釘を刺した。
「いつでも、どこでも安心していられるポジションはありませんよ。皆同じように、ここに立ちたくて頑張っているんですからね。その事だけは忘れないで下さい。もちろん、西城部員の事だけを言ってるんじゃありません」
 さすがは監督、押さえる所はちゃんと心得てる。年齢的にそれほど変わらなくても、俺達みたいに一喜一憂したりしない。
 この、掴みどころがなく、ポヤッとした態度が、頼もしいと言えばいいのか、見た目通り、何にも考えてないのか、時々理解に苦しむ。

「じゃあ、最後に田島君、甲子園のマウンドに初めて上がった感想は?」
「えっと、こそばゆいというか何というか……」
「こそばゆい、ですか?」
「や、不似合い、と言えばいいのか、居心地悪すぎますね」
「フフ、控えめな田島君らしいですね。ですが初回0点に抑えただけでも十分過ぎるほど立派ですよ。後は、…そうですね、相手が私達を軽視して、できるだけ門倉君を温存してくれたら、少しは対等に戦える気がしますね」
 そう言ってにっこりと笑い掛ける。
 威厳とか緊張感とかにはほど遠い。が、甲子園の、目に見えない重圧に押し潰されかねない俺達には、いつもと変わらない監督の柔和な笑顔が、何よりの精神安定剤になった。

「勝ち負けよりも、この場所に来れた事に感謝して、持てる全ての力を存分に出して下さい。もちろん、それが一番難しいのも、このスタジアムなんですけどね」
 言いながら、熱気に覆われたグラウンドを見渡した。
「とにかく甲子園が終われば、お盆過ぎまで学校での正式な練習は休みにしますから、当分野球できませんよ」
 視線を俺達に戻して告げた一言は、はっきり言ってあまり嬉しくない。
「お盆過ぎまでって、…それじゃ監督、よくて二試合しか勝てないと言ってるようなものなんですけど?」
 冷静な柴田副キャプテンの指摘に、ふてぶてしい山崎が唇を尖らせる。
「信用されてねえな、俺ら」
「いえいえ、そんなつもりじゃありません。出し惜しみする事なく、全力でプレーして欲しいと思っただけなんですけどね」
 
 ベンチの中は、いつもと変わらず明るい。
 緊張を紛らわす為、わざと口数が多くなっているのかもしれないが、監督に甲子園のグラウンドの感想を聞かれ、振り返る事で、守っていた場所だけでなく、自分の心がその時どこにあったか、確かめる事が自然にできた。

 答えられなかったら、周りも見えないくらい緊張していたと知っただろう。
 初回には、ボールが飛んでこないで欲しいと願った奴もいるかもしれない。
 それは各々が心の中で気付き、反省なり安心なりすればいい事だ。

 俺も……松谷に言われてしまった。


「北斗、やっぱ駄目なのか?」
 初回、三アウトを取り、ベンチに引き上げる途中で呼び掛けられた俺は、振り向いて目の合った松谷の表情(かお)に、同情と不安の色を見た。
「え?」
「スランプだよ、まだ調子戻ってないだろ」
「……そうか?」
 肩を並べた松谷の視線を避けるように、帽子の庇(ひさし)を下げた。
「ったく、三番のセンターへのヒットなんか、お前の守備範囲だろうが」
「いや、それはちょっと無理が……」
「無理なもんか! 北斗と組んでどれだけ経つと思ってんだ。特に左側の守備に関して言えば間違いなく全国トップクラスだ。俺にパスして楽々スリーアウトだぜ」
「―――悪い」
 買い被りと言えばそれまでだが、俺を高く評価してくれる松谷には、他に返す言葉もなかった。
「…いいけど。今の北斗のプレーでも、その辺の選手なんかよりよっぽど上手いしな。けど俺、待ってるからな。お前とのゾクゾクするような連携プレー」
「ああ。俺も、頼りにしてる」
「っ…バッカ、俺なんか当てにすんな! 悔しいんだよ俺はっ!! ここにいる奴らにお前のプレー見せれないのが、悔しくてたまんねえっ」
「裕也……」
 グラブを俺に押し付けて、バットとヘルメットを手にバッターボックスに向かう、その後姿に激しい憤りを感じ、視線だけで後を追った。

 ―――済まない。
 自分でも、どうしようもないんだ。
 声にならない声で詫びて、苦い想いで左手に馴染んだグラブを外した。

 あいつの友人は、引退を待たずに野球部を辞めた。
 その引き金になった騒動に自分も責任の一端があるなら、ここで、俺が全力でプレーする事が、少しは償いになるんじゃないか。
 俺自身がそうなればと願い、信じてきたつもりだった。
 なのに……頭ではそう考えているのに、プレーに集中できない。
 身体以上に心が冷めてしまってるんだ。
 甲子園のグラウンドに立っても、少しも熱くなれない。相手は去年の優勝校だというのに。

 自分達の力で出場していれば、こんな冷め切った気持ちで、この憧れの聖地に立つことなどなかっただろうか? 

 ―――わからない。


 悪い、加納。
 試合が始まれば勘も戻り、無心でプレーできるかと期待していたが、どうやらそんな簡単なものじゃなかったようだ。
 こんな不甲斐ない姿の俺でも、瑞希の言うように、お前は俺を見続けているのか?



「いいぞ松谷ーッ!」
「続けよォ、渡辺ー!」
 ベンチの中が急に騒々しくなり、はっとして顔を上げた。

「北斗、いきなりチャンスだ、先制点はお前にかかってるぜ」
 半身グラウンドに身を乗り出していたはずの山崎が、いつの間に手にしたのか、俺のヘルメットを目の前に突き出し、「頼むぜ」と瞳に力を込める。しっかりと受け取り、ベンチから腰を上げた。
 短い階段を上がりグラウンドに出ると、頭上で照り付ける太陽の眩しさに一瞬目を細めた。
 強い日差しを遮る為、手渡されたヘルメットを被り、自分のバットを掴む。
 野球を再開して十ヶ月足らず。
 グラブ同様、ようやく違和感のなくなってきたバットを両手で持ち、ストレッチをしつつバッターボックスに目を遣ると、ちょうど渡辺が上手くボールを転がした。

 あいつのバントは本当に絶妙だ。瑞希の調子がいいと必ず、渡辺のバントの成功率も上がる、面白い……というより、単純な奴。
 一見、長打力はないが、小技のできる厄介な奴だと、敵に印象付けるには十分だろう。
 その渡辺が犠打を成功させた結果、セカンドに松谷を進め、一アウトで次のバッターはキャプテンの結城さん。
 それを見て、俺もネクストサークルに向かった。

 三年で、敢えて四番を俺に任せるキャプテンは、ゲームのプレッシャーなんかごめんだ、と、監督にさえ言ってのけるツワモノだ。
 元は俺が三番でキャプテンが四番だったのを、なぜか俺の前がいいと監督に直談判した結果の打順で、今大会が始まってからずっと変わってない。
 確かにスラッガーではないが、ヒッティングの上手さと安定感は群を抜いていると思う。
 どんなに癖のある投手でも、それを打ち崩すのを楽しみにし、二順目には必ず塁に出る、頼もしい先輩。

 投手層の薄いところなら、先制点を許しても負ける気はしない。
 俺達のチームカラーは間違いなく、後半追い上げ型のスロースターターだ。
 それに西城の一、二、三番は共に選球眼がいいから、投手はこれで案外苦労する。

 予想通り、2ストライク3ボールと粘ったキャプテンが、カーブを当ててファールにし、自分の好みの球を待つ。相手投手よりも一枚上手だ。
 思いがけず粘られて、てこずる俺達(てき)に投げ急いだのか、それとも二塁ベースに立つ松谷に、盗塁のプレッシャーをかけられ慌てたのか、すっぽ抜けたボールがキャッチャーミットに収まった。4ボールだ。

 どうやら、相手投手にもプレッシャーがあったらしい。優勝候補の……だろうか。

 肩書きが付けば、責任や周りからの期待も増す。それに打ち勝つ為には、毎日の練習の積み重ねしかない。
 だから俺達‐スポーツ選手は、ひたすら練習するしかなくなって、いつの間にか楽しむ事を忘れてしまう。
 ……楽しめなくなる。
 野球馬鹿とか散々言われるが、そうならざるを得ない環境を作り出しているのは―――

 考えかけて、思考を止めた。
 今は打席に集中だ。


 バッターボックスに向かっていると、背後の西城高校吹奏楽部の応援がよく聞こえる。 県大会よりも格段に上手くなってる。

 野球部の甲子園出場が決まってから、俺達が西宮に出発するまでずっと、校舎内外のあちこちで様々な楽器の音色が聞こえていた。
 彼らにとっても貴重な夏休みを返上しての、一日練習だった。

 奏でられるメジャーなメロディーを聞きながら、白いラインで囲われたバッターボックスに近づいていく。

 甲子園の初打席――なんて感慨は少しも湧いてこない。
 俺にしてみれば、再びグラウンドに立つ事自体、すでに奇跡なんだ。

『感動』というなら あの日、一年二ヶ月ぶりに野球のユニフォームに袖を通し、初めて西城高校のグラウンドに立った、あの瞬間だったろう。


 一球目、外角低めに来た球を見送った。審判の判定は以外にもストライク。
 相手にはラッキー? それとも読み通りのコースだったのか、4ボールを出した後だから、ストライクは欲しかったはずだが、俺の判断では今の球はボールだった。
 二球目、今度も似たようなコースだが、さっきよりまだ僅か下に行った。が、判定はやはりストライク。
 この主審のストライクゾーン、左右はともかく下方は要注意だ。それに、相手のピッチャーのコントロールも、あまり定まっていない。
 三球目、裏をかいたつもりか、同じところに来た球は、今度こそはっきり外れた。
 低めに球を集める辺り、長打を警戒してのものとは思うが、2―1からの四球目、これがいきなり胸元ぎりぎりに食い込むような危ないボール。
 投げてすぐにボールとわかる悪球を、キャッチャーが立ち上がって必死に捕球する。ついでにタイムを掛け、マウンドに走っていった。

 ああも安定してないとキャッチャーも苦労しそうだ。ただし、西城には願ってもないチャンス。後逸でもしてくれたら、それぞれ進塁できる。

 一、二塁走者に目で合図を送り、盗塁の好機を促す。
 マウンド上の二人は、おそらく明峰高校の次期バッテリー、俺と同じ二年だ。
 ピッチャーだけでなく、キャッチャーも正捕手の背番号ではない。
 聞いた事もない高校、しかも準優勝での甲子園初出場、そんな知名度しかない俺達を相手に、最初から正規のバッテリーなど必要ない。
 そこで、来年への経験値を上げる為、次期バッテリーを先発させたんだろう。その俺の読みはさほど外れていないはずだ。
 このバッテリーがどこまで保つか知れないが、西城の打撃力なら打ち崩せる。そう確信してマウンドの二人をじっと見据えた。

 一種の…というか、俺流の心理作戦。
 ピッチャーをしていた時、山崎がマウンドに来ても、打席から出て一生懸命素振りする奴はそれほど怖くなかった。それより、何もせず俺達の会話を探るように、目を逸らさないバッターに恐怖を感じた、作戦が筒抜けなようで。
 そう思ったら、たいがいその時は打たれていた。
 その頃の経験を生かし、ピッチャーでされて嫌だと思った事を、自分がバッターボックスに立った時に色々試してみた。
 結果、一番効果的だったのがこれと、途中でタイムをかけてスパイクの紐を結び直す事だった。しかし後者は自分の集中力も下げる為、早々に止めた。

 このバッテリーにはどうか。
 グラブで口元を隠し、キャッチャーと会話するピッチャーの様子をじっと見ていると、俺の視線に気付いたらしく、あからさまに顔を背けた。

 ―――勝った。

 俺の視線を受け、何事もないように自然に目を逸らすのは、普通の反応。
 そんな相手に心理戦はあまり通用しない。
 これをして真っ向から睨み返してきたのは、中三の夏季総体決勝戦の時の投手だけ。
 ベンチからの敬遠の指示を受けた加納、たった一人だ。
 今にして思えば、それも非常に納得する。
 監督は、門倉さんが出てこないほうがいいような口ぶりだったが、俺としては、せめてレギュラーのバッテリーぐらい引っ張り出したい。でないと加納に申し訳も立たない。


 キャッチャーがホームに戻り、試合が再開する。
 2―2。
 相手は俺がボール球を投げると想定し、一球様子を見るつもりでいると思っている。それを利用してストライクを取りに来る。
 投げる球は恐らく―――

 その初球、迷う事なくバットを振り切った。
 確かな手応えを感じ、一塁ベースに走る。目の前を打球を追ってライトの外野手が走る。ライン際、痛烈な当たりはファールグラウンドに転がる長打コースになった。
 迷いはない。
 一気に二塁ベースを駆け抜け、サードに滑り込んだ。
 ボールはホームにも三塁にも来なかった。ファーストが中継に入り、そのままピッチャーの元に返された。

 投げてきたのは予想通り、外角ぎりぎり、ストライクコースに入ってくるカーブだった。
 手を出して引っ掛けてくれればゲッツーも有り得る、とでも考えたのか。
 ストレートより変化球が得意なのは、前の打席の組み立てを見ていても気が付いた。
 まだ一回裏。開始直後のピンチに、制球の定まらないピッチャーを得意の球種で落ち着かせ、自信を持たせるのは、キャッチャーの大事な役目だ。
 だが、その思いが裏目に出た。
 俺への初球と二球目、外したつもりのストレートがストライクになって、相手もリズムが狂ったのか。
 だからといって、同情する気になど更々ならないが。不利になっていたのは間違いなく俺の方だ。

 思いがけない二点の先制点に、俺の真横、レフトスタンドからの声援が一際大きくなる。タイムを要請して保護カバーを外し、ヘルメットを被り直した。
 軽々とバットを振りながら山崎がバッターボックスに入る。その前に俺にアイコンタクトを取る事は忘れない。
 心の中で苦笑しつつ、リードを取った。

 多分、俺からの返答など期待せずに、それでも待っているんだろう。それはよくわかっている。
 だが、ピッチャーを辞めてからのブランクと、野球から遠のいていた間に、素直さをどこかに置き忘れた俺は、ずっと変わらない無邪気なあいつの笑顔に、応えられなくなってしまった。

 そんな無愛想な俺に構うことなく、打席に立った山崎からは、変な気負いは感じられない。
 来たボールに欲のないスイングをした。

 県大会のラストバッター。その雪辱を自分のパワーに変えて、久々に響いた快音。
 レフト前への当たりに、俺は余裕でホームベースに還ってきた。

 たった百十メートル程のダイヤモンド一周が、とんでもなく困難だったり、あっという間の出来事になったり。
 こんなものに夢中になれる俺達は単純だ。けど、幸せだとも思う。

 ……あいつとは違う。
 互いを打ち合い、自分の身体を敢えて痛みに晒す、厳しい道を選んだあいつとは―――




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