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作品名:杜鵑草ー春まだ遠くー 作者:chihiro

第6回 この手を離さない
俺は部屋に戻ってから何をしていいのかわからなかった。あの人と一夜を共にしたときにはすぐにテレビをつけてベッドで自分のみたい番組を見ていた。あの人は早朝出発のためにまるで俺がいないかのように振舞っている。浴室からシャワーの音が聞こえてきた。俺はあの人の裸を想像した。あの人の手はまるで赤ん坊のように柔らかい。手だけではなく肌がどんなケアをしているのか柔らかい。豊満な胸に顔をうずめたい衝動を抑えることは始まったばかりのみたかったボクシングの番組を集中するしかなかった。
今はそのあの人はいない。ボクシングの番組もいない。
「少ししかいなかったのに何か肌が焼けたように赤いわ。いまさら遅いけれど日焼け止めのクリームをつけてくれる?」彼女はそう頼んできた。
彼女はすでにベッドにショーツだけになって横になっている。俺の心臓はこれ以上ないくらいに動揺した。
「うん、たしかにあかくなっているね。赤くなっていないところも塗ってほしい?」
「お願い。」
俺は日焼け止めクリームを彼女の背中に塗り始めた。
足が痛いと俺が文句を言ったためにマッサージしてあげるといったあの人の言葉を思い出した。あの人のマッサージはまるでプロのマッサージ師にしてもらっているように気持ちよかったことを思い出した。
(何故あの人のことばかり思い出すんだ。俺は彼女と二人で伊豆に来ていてこの人を離さないと決めたのに。)
「あなたのマッサージの仕方とてもうまいわ。」
「ありがとう。人にマッサージをするなんて初めてだよ。」
「されたことはある?」
「うん、一度だけだけれどね。」
「マッサージ師?」
「ううん」俺は先を続けられなかった。
「私に触れて興奮しない?」
「興奮しているよ。」
「だったら・・」それ以上彼女は言葉を続けなかった。ひじを立てて上体を起こしキスしてきたのだ。
「抱いて・・」
俺は困惑した。しかしいずれは通らなければならない道であるならばこの瞬間しかない。
しかし最中に思い出すのはあの人のことだった。
「ねえ、あなたの心の中に誰かいるの?」行為が終わった後彼女は俺に尋ねた。
「いないよ。君だけだ。どうして?」
「心ここにあらずって感じだった。誰を思い出していたの?女はね、そういう勘は鋭いのよ。」
「俺は女性経験がほとんどない。だから今回のこの行為もビデオで見たことを思い出していただけさ。君に嫌われたくない一心だったから。」
「こういうことは慣れと自分の本能ね。あと相手が何を望んでいるのか。それさえわかれば後はそんなに問題じゃないわ。あなたが以前話をしていたことが本当のことだったんだってわかって私は逆にうれしいわ。」
「そういってくれるとうれしいよ。エネルギーを使ったから疲れたよ。もし良かったら眠りたいんだけれど。」
「そうね。あなたが一日中車の運転をしたんだし。明日は朝日を見たいわ。午前5時に起きられるかしら?」
「大丈夫。毎日そのくらいの時間に起きているから。」
「じゃあ、起こしてね。おやすみ。」そういうと彼女は俺の頬にキスを軽くした。

俺たちは午前5時に起床した。しかしまだ夜は続いている。ネットで調べると日の出の時間は五時四十分過ぎだという。彼女は俺を求めてきた。俺はその気にはならなかったがこれといった理由が見つからない。
「私の体ってあなたにとって魅力を感じないの?」彼女は心配そうに尋ねた。
「そんなことはない。ただどうやって初めていいのか、どうやってやっていいのかわからないだけだ。」
「本当にそれだけ?」彼女の質問に俺は頷いた。「わかったわ。私がリードしてあげる。でもその前にカーテン開けていい?朝日を見たいから。」
「何故朝日を見たいの?」俺は話を変えた。
「新しい日が始まって希望とか夢とかそして自分も新しくなった気分がするから。あなたはそんな気分になったことはない?」
「自分が新しい気分になる?うーん、今までないかな。また今日も仕事だ。疲れるな。っていつも思っているよ。」
「つまらない人。でもアニメを考えるときは?」
「やはり興奮する。後はスポーツかな。野球はあまり好きじゃないけれどサッカーやボクシングが興奮するね。」
「ああ、あなたとは本当にアニメとしか共通点がないのね。そろそろ水平線がオレンジ色に変わってきたわ。」そういうと彼女はベッド脇に転がっていた下着をつけて窓辺に近寄った。
「あなたも来て!」命令されたからにはしかたがない。朝日を見終わったら寝かせてくれる時間が来るだろう。俺は裸でバスローブだけを羽織って彼女の元にいった。

確かに朝日はきれいだった。しかし感動するほどのものでもなかった。俺はきっとそういう感情が不足しているのだろうと自己解析した。何でも彼女の言うとおりにするのは嫌だったがあわせられるところはあわせようと思っていた。長い間一人で生きてきた俺にとってはそれは難しいことだった。
「ね、朝日を見るとああ、今日もがんばろうって思うでしょう?」
「そうだね。確かに生まれ変わったような気がするよ。」
「今日はいろいろなところに行きたいわ。」
「だったら朝食の時間まで寝かせてくれる?それだけが俺の望みだ。」
「わかったわ。あなたが車の運転をするわけだし。仮眠している間は何もしないから安心して。」

その日の彼女のプログラムは運転するものにとっては最高のものだった。疲れたころあいで食事をしたり、見晴らしのいい場所に車をとめて海を眺めたりした。
「私、今日の日を忘れない。」彼女は独り言とも言える言葉をつぶやいた。
「そうだね。俺も今日の日を忘れない。」あの人のことは思い出さなかった。
俺はそれでいいんだって自分に言い聞かせた。


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