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作品名:老人と私 作者:chihiro

第9回 彩が消えた部屋で一人ごちた
病院に入院してから数ヶ月がたっていた。担当医の斉藤は入院費用の話を一切しなかった。
結の洋服はもともと数が少なかったが病院にいる限り洋服を着ることはなかった。介護職の人たちはひっきりなしに結に話しかけていたが答えることはしなかった。
ある日、車椅子に座りながらも廊下を何往復もしている老人に部屋を間違えられた。その日は介護職の人が結の排泄介助をしたまま扉を閉めるのを忘れたからだった。
「ああ、部屋を間違ってしまった。失礼しました。こんなにかわいらしいお嬢さんに出会えるとはラッキーだったかもしれないな。人のおせっかいはほどほどってわかっているんですけれど、こんな彩が消えた部屋で一人ごちても仕方がない。人生死ぬときまで勉強です。良かったら私と一緒に話でもしませんか?あなたも外に出るべきだ。」
「もう、私には外に出ることは出来ません。」
「だったら話ぐらいいいでしょう。どんな環境になってしまってもあなたはこうして今を生きている。私との話が右から左に通過する会話でもいいじゃないですか。話したいことを話せばいい。」
「どんな話をしていいのかわかりません。」
「なんだっていいんですよ。地震の話、高校野球の話、アメリカと北朝鮮の話、何でも聞きますよ。」
「高校野球はまったく興味がありません。昔は野球って好きなスポーツだったけれど今は注目している選手もいない。アメリカと北朝鮮の話なんて戦争が始まれば被害をこうむるのは日本ですよね。多くの人が犠牲になるでしょう。地震などの自然災害だって同じことです。人がどうなろうと私には何の関係もない。もし私に被害が及ぶようなことになったとしてもそれはそれでかまわないと思います。それまでの命だったとあきらめよりもやっとお迎えが来たかと喜ぶことでしょう。」
「何故死にたいんですか?」
「生きる意味がない。もともと生まれてきた甲斐なんてなかったんです。それでも若いころは私なりに一生懸命にがんばってきました。でも十年ぐらい前から生きる意味を考えるようになってから何もかもわからなくなりました。ちょうどそのころから持病を持つようになって医者からそっぽを向かれて・・」
「いわゆる民間療法で何とかしようと思わなかったんですか?」
「しましたよ。こういうものが効くってうわさを聞いて通ったり取り寄せたり。でもどれもだめでした。がんばるのが疲れたんです。」
「今あなたがおかれている状況のように休めばいい。そもそもどんな動物でも植物でも機械だって休まなければ先に進めない。休むことは恥じることじゃないと思います。元気を取り戻したらまたがんばればいい。私が思うにあなたは今とってもささくれが多いのだと思います。逃げとか休むとか日本人にとってはあまり良くないと教育されているかもしれないけれどそれもありだって思うんですよ。心にささくれが出来てしまったら休む。それがその人の人生だったとしても誰が文句を言うんですか?自分の人生は他の人の人生ではない。日本人はみんなと同じじゃないと不安だとか異端児扱いされるとかそれこそおかしいと私は思います。みんなと同じじゃなくてぜんぜん大丈夫なんですよ。自分を見失しなければ同じことをしてもかまわないけれどそれだってどこか違うはずだ。同じ服装、同じ考え方、それこそおかしい。自分はどこ?あなたみたいに自分を見つめなおしてそれで悩んでいることはとっても重要です。今の若い子は問題にならないけれどそういう大人、老人もいますから。あなたは正しいことをしているんですよ。私があなたと同じ年齢のころにはそんなことなどこれっぽっちも考えませんでした。あなたはとってもラッキーな人だと私は思います。」
「ありがとうございます。確かに私は幸せなものかもしれません。自分の置かれた環境がとっても不幸だと思っていたけれど実はとっても幸運なんでしょうね。ただそれをどうあらわしていいのかわからない。あ、だから感謝するんでしょうか?」
「何か思い当たることがあるんですか?」
「動けなくなるまで介護職をしていました。そのところであなたはラッキーだって言われました。そのときはその意味がわかりませんでした。実のところ今もわかりません。」
「あなたは正直な人だ。いいんですよ。それは今学んでいる最中なんですから。あ、そうそうどこだったか忘れましたけれど落ち込んだときはわざと笑ってみるといいらしいです。
顔が笑うと脳に反応して自分は今楽しんだって思い込むらしいです。つくり笑いなんて嘘だから嫌だと思うかもしれませんが心から笑えなければつくり笑いもありです。この世は嘘ばっかりなんだから嘘笑いしたって誰も何も言いません。言ったとしても関係ないじゃないですか。断る理由も言い訳する理由もない。」そういうと老人は笑った。「ああ、自己紹介がまだでした。私は宮元っていいます。また会いましょう。あなたの名前を聞かせてくださいな。」
「岡本っていいます。」
「岡本さんね。今度あなたとお話するときは内緒であなたがどのくらい笑うのか数えますからね。」宮元は笑いながら結の病室を出て、宮元を探していた看護士に小言を食らっていた。

それから毎日宮元の極秘の訪問が始まった。宮元が言うには自分の意思で動かないと動かなくなるので看護士に怒られながらもリハビリをやっているという。毎日リハビリテーション科でリハビリをしているらしいがそれだけでは足りないと思っているらしい。宮元は八十五歳になる大柄だったが車椅子がなければとても病気であるとは思えない元気さでよくしゃべってよく笑う男性だった。
「二十年前に私はうつ病にかかったんですよ。何もかもが白黒に見えてカラーってなくなってしまったんだなって思ったものです。今ではどこで誰が私に言ったのか、それともテレビなどで見たのか忘れてしまいましたが、「笑う」ことを学びました。初めはきつかったですよ。自分の心が笑う状態じゃないのに嘘をつくのは嫌だなとも思いました。だから興味のある人と話をすることにしたんです。その興味のある人は面白い話をたくさん持っていて嘘笑いをする必要がなかった。そして一人になって「ああ、笑うって大切なことなんだな。」と思ったんです。だからあなたにも勧めているんです。岡本さんは初めて会ったときから少しずつ笑うようになりましたね。とてもいいことです。」
「宮元さんのおかげです。」
「人って漢字は寄り添っているじゃないですか。こういう漢字を考えた人は天才です。はるか昔から人間のことをよく観察していたんだなと。まあ、どこかで誰かが思いついたほうが正しいのかもしれませんけれどね。」
「リハビリはうまくいってますか?」
「手すりをつかまってですが少しは立てるようになりましたよ。」
「それはすごいです。私は骨盤のどこかの骨がかさかさになって骨折しやすくなっているので車椅子にも座れません。」
「人の視点は寝ているとき、座っているとき、立っているときと違います。今までとは違った視点で見ることが出来てよかったなと思うべきですよ。何でも自分勝手にポジティフにね。」
「そうですね。まだ座れない赤ん坊のことを思い出しました。彼らは一日中天井を見ていてとても退屈しているんだろうなって感じたことも。赤ん坊だったらママやパパに抱っこされて違った視点から見ることが出来るけれどまだ開発途中だから違いがわからない。」
「面白い発想をするんですね。それはあなたの脳が柔らかいからなんでしょう。さて、そろそろ病室に戻らないと看護士から小言を食らってしまう。」宮元はいつものように車椅子を足で動かしながら右手をあげて挨拶をしながら戻っていった。

翌日の同時刻、宮元は姿を現さなかった。廊下に出ればリハビリをやっている姿が見られるのだが二メートルばかりの扉まで行くのに何時間もかかってしまう。今まで彩りがあったはずの病室がまたしても色がなくなってしまった。
一週間がたった。看護士に排泄介助をしてもらっているときに思い切って聞いてみた。
「ああ、宮元さん。あの方は亡くなりました。脳卒中だったらしいですよ。」
結は排泄介助をしてもらっている間天井を見ていた。「天井に色がない。」ショックの中でそれだけしか思いつかなかった。


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