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作品名:老人と私 作者:chihiro

第7回 体がうずくほどぽっかり空いたこの胸
斉藤カヨは坂本瑠璃子と同じ年齢ぐらいで元気だ。たいがいのことは一人で何でもやってしまう。ラウンジにいるときも誰かと話をするわけではなくテレビから釘付けになっていることがあまりない。それでもカヨは誰にでも礼儀正しかった。
ワーカーに車椅子を押されたら「ありがとう」と小さな声でも言うし、それが出来なければ手で合図をして感謝を表す。結はカヨを見ていると病院で見た百歳の老女のことを思い出した。
(何故感謝が出来るのだろう。もしかして私は感謝が足りないから死ねないのではないか?)そう思った結は人に感謝することを学ぼうとした。
仕事面ではいつまでたっても一人前になれずにホームの正社員や派遣社員の先輩たちに小言を頂戴している。志津子から他のワーカーが結が技術面でまったく使いものにならないことを教えられている。もう何年も自分は人前に出てはいけない人種なのだと思っていたが仕事上人前で体操の誘導やその他のことをやっている。申し訳ない気持ちのほうが感謝の気持ちよりも常に優先されるがそれでもここにいさせてもらっていることを感謝すべきだと気がついたのである。
先に述べた嚥下体操の後も排泄介助を行った後も結は「ありがとうございました。」というようになった。それは自分の話しを聞いてくれてありがとうという感謝の表れだ。そのように動かしたカヨを結はすごいなと思った。

時々仕事は予定されている時間よりも早く終わることがある。そんなときはワーカーたちも詰め所で書き物をしているか書き物が不要であるワーカーは利用者と話をする。施設に入っている大半の人が認知症気味で同じ話ばかりしかしない。もちろん頭がはっきりとしている人はこちらの質問に答えてくれる。
幸運にもカヨと話をする機会に恵まれた結はかねがね思っていた質問をぶつけてみた。
「カヨさんはいつも感謝の気持ちを表してますね。それは何故でしょう?」
「私が今こうして生きていられるのはあなたたちワーカーさんのおかげだから。」
「施設の利用者にはお金を払っているんだから自分の世話を焼くのが当たり前だって思っている人もいますよ。」
「知っているわよ。でも人は人。その人が感謝しないからといって文句をいう筋合いはないわ。ただ私は死ぬ前に心をピュアにしたいなって思ったのよ。」
「何か理由があるんですか?」
「だってこの世に未練を残したって仕方がない。だからうらみとか憎しみなどのネガティブな考えをしないように努力している。仏陀やマザーテレサの領域に達したいの。もちろん私の業績なんて彼らからしてみれば何もしていない。でもあるとき目標にしてみたらどうなるだろうって思ったのよ。」
「目標が仏陀やマザーテレサなんてとても高い目標なんですね。」
「目標は高ければ高いほどいいと思ってね。」
「目標を掲げてから今日までの間に自分で採点して目標を掲げる前と変わったと思いますか?」
「まだまだね。感謝をするときは感謝の気持ちを表すようにしているけれど普段はまだ賎しい気持ちが残っているもの。あなたも何度か遭遇したことがあるかもしれないけれど、私だって愚痴を言っているのよ。でも自分にとって恥ずかしいことだからこっそりとやっているの。」
結は昼食後にカヨが自分の居室とは程遠い百一号室にいって男性の利用者と話をしているのを何度も目撃していた。
(そうか、あれが愚痴を言っているときだったんだ。でも誰が誰と話をしたとしてもそれは誰も何もいえない。)
「あなたが望む答えを私は発言したかしら?」
結が考え事をしているとカヨは心配そうな顔で結を覗き込んだ。
「ええ、もちろんです。ただ私はそういう高い目標を持つことは出来ないなって思っただけです。」
「私もやり始めのころは出来ないかなって何度も挫折しそうになりました。でも私ぐらいの年齢になるとやれることって限られてくるから。動きたくても動けなくなっているし。だったら動かなくても出来ることってなんだろうって思うようになったの。私の考えを押し付けするわけじゃないわ。あなたにこういった質問をされなければきっと話をすることもなかったでしょう。ただあなたはいろいろと考えているみたいだから。」
「カヨさんからみて私ってどんなふうに写っているのでしょう?」
「そうね。前向きでとても好感が持てるわ。」
「お世辞でもうれしいです。」
「お世辞じゃないわよ。あなたの技術のことは私にはわからない。でも今まであなたが体験したことがそのまま出ている。それは誰かに良く見られたいという浅はかな考え方じゃない。利用者はコミュニケーションに飢えているものなの。私たちが何かを頼んだとしても聞く姿勢や何とかしてあげたいという気持ちの表れが利用者に好感を持つのだと思う。中には心無いことを言う人もいるかもしれないけれど、見ている人はちゃんと見ているわ。」
「ありがとうございます。」
「今を生きていられることに感謝しなさいな。あなたが出来るすべてのことに感謝していればきっとそのうちお迎えが来るでしょう。思い残すことがなくなったときにすぐにでも呼ばれるわ。」
「きっとそうなんでしょうね。」
「朝の放送で、そしてあなたも時々言うけれど今日も一日がんばりましょうという言葉は私だったら私に、あなただったらあなたに向けられた言葉で、与えられた試練と機会をがんばればいいと思うの。がんばっている人にこれ以上がんばってっていうのは時には逆効果かも知れないけれど誰かに言われたからがんばるのではなく自分らしくがんばる。言葉の使い方が下手でうまく言い表すことが出来ないけれど、そのうちに「ああ、こういうことを言っていたのかな?」ってわかるときが来ると思うわ。たぶんそのときがそのときなんでしょうね。」
「そうですね。ありがとうございました。やはりカヨさんとお話できて良かったです。」
「自分の考えていることは口に出して言ったほうがいいのかもね。そうすれば自分の考えもまとまるでしょうし、会話の中で自分が何をしたいのか、どこに行くのか見えてくると思う。」
カヨはそれだけ言うと百一号室のほうへ車椅子を動かしていった。


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