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作品名:老人と私 作者:chihiro

第3回 鉛色の空の下うんざり晴れた世の中
百十号室の住人である丸木志津子はこの特別養護老人ホーム「やすらぎ」に入所して十年の歳月を過ごしている。志津子は六月に九十歳の誕生日を迎えた。
左全体が麻痺してまったく動かない。それでも自分の現状に嘆くことなく毎日を過ごしている。むしろ小さな社会の中で自分の位置づけをしている人だと結は感じた。自分がラウンジに行くと必ず複数の他の利用者に声をかける。食事を待っている間今日のメニューを予想する。誰とでも分け隔てなく話をするが決して他の利用者ともワーカーとも馴れ合いになることを好まない。
介護という職業は動ける若人でさえもきつい。仕事の内容もさることながらメンタルティな部分も相当のふてぶてしさがなければ続かない。志津子はやすらぎの住人となった十年前からずっとそんなワーカーを見てきた。
「岡本さんは起こすだけ?」
「いや、すべてやりますよ。それに丸木さんとはお風呂を世話させていただいたじゃないですか。」
「ああ、そうだった。」
「丸木さんから見たら私はやることがとろいし未熟なところばっかりでしょうね。」
「それは仕方がないよ。まあ毎日精一杯いろいろなことを覚えて早く一人前になることだね。」
「はい、がんばります。」
丸木志津子は実際に多くのことを結に助言した。月曜日は女の特浴で志津子はラストなので長めに入れること、マイ○○を持っていて決して施設で他のものがつかうような櫛やコップは自分のものを使う。仕方がなく入所しているが個人レベルのものは他のものと共有したくない表れだった。
結は志津子に機会があったら聞いてみたいことがあった。動かなくなった自分の体でどんなモチベーションがあってこの世にしがみついているのだろうということだ。
機会もなく志津子を見ていると自分なりのストレスの発散をしているかのようだった。ただしそれがストレスと言うのならばの話だが。
「おはようございます。朝ですよ。」
「ああ、岡本さんだっけ。あなたは怖いから私を起こすのは誰か他の人にしてくれる?」ある日志津子は唐突に結に言った。
「私が丸木さんを怖がらせました?」
「あなたはたぶん覚えていないのでしょうけれど二回も私を床に落としそうになったでしょう。怪我をされたら、病院に行くようになったら困るから。あなただって怖がっている人の相手をしたくないでしょう?」
「肝に銘じておきます。覚えはないですけれど完璧な離床だったとは思えませんから。」
「もうここに十年、前のところには五年いた。私はいろいろなワーカーさんを見てきたけれどあなたみたいにいつまでたっても覚えが悪い人もそういないわよ。」
結は何も言い返さなかった。志津子の文句はまだ続いた。
「私はどうも食べると身につくタイプになってしまったらしいからとどみたいな体格をしているけれどこの施設にお金を払ってあなたの給料を出している利用者だから、この施設にいたいのだったら事故なんかを起こさないで私に何かするときは必ず誰かヘルプを呼びなさい。あなた一人でやってもらうと私のほうが嫌な気分になる。」
「わかりました。」
「別にいじめているわけではないし悪口を言っているわけではない。あなたはあなたなりにがんばっていることはわかっている。でもがんばっていることと私が事故に起きることは別問題。」
「わかっています。他の人はどうかわかりませんけれど少なくても私は正直でありたいと思っています。至らない点があったら直接いってもらったほうがお互いのためになるし。」
「覚えておくよ。思っていた以上に根性が座っているんだね。」
「ありがとうございます。それなりに体験がありますから。」
志津子は何も言わなかった。清子のときとは違った感情が志津子を支配していることは手に取るようにわかった。
(ま、嫌われたって仕方がない。合わない相性は努力してもムダ。)」
「鉛色の空の下、うんざり晴れた世の中」
「なんですか?」志津子が急にぼそっとつぶやいたので思わず結は聞き返した。
「晴れているけれど快晴じゃない。どこか心に鉛色を持っている。」
「だからうんざり晴れた世の中なんですね。」
「そういうこと。かりそめの晴れ。みんな嘘がうまいからかろうじて晴れているけれどおなかの中は何を考えているかわからない。そんな疑心が光化学スモッグのような空を作り出している。」

志津子と立ち入った話をすることは困難だとわかった結は少し残念な気がした。それでもこの会話でわかったことがある。体半分が麻痺をして動けなくなったとしても生をやめたりしようと思わないことだ。
(死が来るのを待っている?)その日がいつやってくるのかわからないのに、ただ漠然と待つことは気がめいりそう。施設内での事故も許さないとなるとなんとなく毎日を過ごしているけれどそれでも死が訪れるのは嫌なんだろう。自分がまるで不老不死のようにこのまま永遠に小さな社会の中で生きていくつもりなのかしら?
(ああ、聞いてみたい。何故そんなに生に固執するの?命あるものいずれかは涸れてしまうのにどうしてそのことが理解できないのだろう。理解したくない。汚いものにふたをせよの日本人の昔ながらの習慣でマイナスな問題は目をつぶるのか?
志津子とは一日に必ず一度は顔を突き合わす。早番である結の最初の仕事は志津子からの起床介助なのだ。おまけに志津子は寂しがりやだ。いつでも誰かとコミュニケーションを持たずにはいられない。
週末結がいないときのことを丁寧に教えてくれる。
「あんた嫌い。」発言があった翌週の月曜日もそうだった。
「週末に父ちゃんが尋ねてくるんだけれど昨日の週末はそうじゃなかった。会えなかったから寂しい。」
「離れて暮らしているのに仲がいいんですね。うらやましいです。」
「来週末は来てくれるといいな。」
「私もかげながらお祈りさせてもらいますよ。」
「うちはお金持ちじゃない。私は三食、そしておやつまでここで食べさせてもらっているけれど父ちゃんはきっとのこりもので食事を済ませているんだろうと思う。貴重なお金を使っているんだ。」
「一緒に住んで旦那さんが介護するのと週末だけ会いに来るのとどちらがいいんでしょうね?」
「そりゃ一緒に住みたいけれど介護するにはお金がかかる。だから父ちゃんは働かなければならない。一緒にいたって迷惑かけるだけだからね。」
「志津子さんがこの世に執着しているのは旦那さんだけですか?」
「娘や息子はもう独立しているからね。彼らは自分たちの人生を歩めばいい。でも父ちゃんは違う。」
「会えなくて落ち込んだりしないんですか?」
「落ち込んでも仕方がない。岡本さんはまだ若いから動けるから考えられないかもしれないけれど、病気になったり老いて動けなくなった人はそれを受け入れるしか方法がないの。こういうところに入ってしまうといくら自由にさせると謳っていても自由じゃない。何もしないで待つってつらいことだよ。ただ漠然と待つのは気がめいる。」
「ただ呆然と待つっていうのはつらいですよね。あと何日ってわかればいいのかもしれないけれどそうじゃないとモチベーションがわかない。」
「とにかく明るくモチベーションは少しでも持ったほうがいい。自分のやりたいこと、やらなければいけないことを全うすることでそれがかなえられたらあっちにいけるのではないかってね。」
「望みすぎるとなかなか望みがかなえられない?」
「そういうことだね。だからいろいろな意味でがんばりな。」
「はい、わかりました。今日は貴重なお話を聞けてよかったです。ありがとうございました。」
「また機会があったらそういう話をしよう。どうも岡本さんとは他のワーカーさんたちとは違う話で盛り上がりそうだ。」
「そういってもらってうれしいです。」
結は頭の引き出しにそのときの志津子との会話をしまった。


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