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作品名:薄命世代 作者:ゴーストライダー

最終回 終幕


  明日 U


 白いドアが、パタンと閉じられた。
 次いで、玄関のドアが閉まる軋んだ音も。
 入口と相対している状態から、くるりと振り返る。
 私一人に戻った白い部屋の中は、どこかひっそりとしたように思えた。
 カチカチカチ。
 右手に持ったカッターナイフの刃を、親指で出し入れする。前のは血が凝固して使えなくなったから、新しく購入してきたものだった。
 彼の答えによっては、性交時に無理心中をするつもりだったが、結局逃げられてしまった。
 刃を収納してから、段ボールが積み重なったベッド脇へと放る。偶然にも、円柱型のゴミ箱に吸い込まれるように消えた。
 その様子を眺めてから、窓際へと近づいた。母が掃除をしてくれた、柔らかなカーペットの上を、弾みをつけて歩きながら。
 閉め切られていた厚いカーテンに手を掛ける。ガラス戸の外には、ずっと使っていなかった小さなベランダ。素足のまま出て、ステンレスの手すりに肘を置いた。
 雪が降り出しそうな曇り空との間には、鳥避けの白いネットが張り巡らされていた。そのせいで、腕を外に伸ばせない。目に映る景色も升目状に区切られていて、とても窮屈さを感じる。それでも、薄いジャージを通して刺すような冬の寒さには、ささやかな充足感があった。
 網目越しに地面を見下ろすと、マンションの正面玄関から、一匹の蜘蛛が這い出ていくところだった。私が油断させるために与えた情報を、お腹いっぱいに蓄えて。食事が済んだから、もう用無しなのだろう。駅の方面へと、脇目を振らずに退散していった。
 それにしても、と長髪を風に嬲らせながら思う。
 高坂が死んだ、か。
 知らせを聞いた時には、オレンジ色の錠剤の効果もあって、はやる気持ちになっていたが、平静に戻ってみると、それはとても寂しいことだった。
 似たもの同士、というのだろうか。
 人間関係に疲弊して、誰かに必要として欲しいと願った末に、自殺を決行した高坂。
 人間関係に疲弊して、誰かに必要として欲しいという想いを捨てて、無意味に生き永らえている自分。
 それはすぐそばにいる関係のようで、決して交わることのない、平行した線路のようでもあった。
 私はわりと、高坂のことが好きだったのかもしれない――それは皮肉にも、私と彼を白い糸で結んだ、蜘蛛のおかげで知り得た感情だったのだけれど。
 着信音が鳴り響いた。
 ベランダから身を翻して、室内に戻る。口が開いたままの段ボール箱へと手を突っ込んだ。音と振動を頼りに、底を漁る。
 大学生の時に使っていた携帯電話は、在学中にへし折った。迷惑メールや非通知電話が頻繁に来るようになってから、持たないようにしていた。今鳴っているのは、彼が連絡用に渡してきた小型の衛星電話だ。
 やっと拾い上げると、ディスプレイには『小泉亮(りょう)』と表示されていた。彼以外がこの番号を知らないのだから、当然のことだけど。
 耳に軽く当てて、通話ボタンを押す。
『……お前、静観怜子か?』
 懐かしい声が聞こえた。
「ああ、幸司か。ひさしぶりだね。どうしたの?」
『その、突然電話して、驚いてると思う。だけど、落ち着いて聞いてくれ……そばに小泉はいるか?』
「小泉くんなら、もう帰ったよ」
『そうか……』
 ほっとしたような、秋田の息が漏れる。
『俺は今、小泉の家にいるんだ。ちょっと事情があって、あいつの家に居候していてな。隠してあった電話に、怜子の番号があったから掛けてみたんだ。そうそう、懐かしいよな、怜子。高校以来だろう、こうして会話するのは。あの頃はよく、部活の後に付き合って遊んだよな――』 
「それで、何の用?」
 焦ったように捲し立てる秋田を遮る。面倒なことと、回りくどいことは大嫌いだ。
『その、つまりさ……これから小泉の家から出て行くところなんだが、当てがなくてさ。ちょっと、泊めてくれないか? 頼れる人間が、怜子しかいないんだよ。それにほら、付き合ってた仲だろ? 頼むよ』
 こいつは、昔からこうだった。図々しくて、恩着せがましくて、自分のことしか考えない男。だから、長続きしなかった。
 交友関係に貪欲だった、高校生の自分だったら受け入れたかもしれない。だけど、今はもう違う。
「私のことも、レイプするつもり?」
『え? なに?』
 秋田は、やっぱりなにもわかっていないようだった。
 あまりの愚鈍さに、思わずえくぼができる。
「それなら、小泉くんの家にいれば?」
『いや、なんていうかさ……あいつ、結構やばいと思うんだよ。怜子は知ってると思うけどさ、ひきこもり連中の家に行ってるだろ。俺らの世代の自殺者が多いから、それを助けるためだって。でも、実際には、そのカウンセリングの相手が自殺してるんだよ。これって、おかしいだろ? 同級生の名簿を調べたら、小泉が関わった人間ばっかが死んでるんだよ。だからさ、これは怜子だけに教えるんだけどな。本当は、あいつはさあ……』
 受話器越しに、秋田が唾を飲み込む気配が伝わる。
 耳を澄まして、次の言葉を待った。
『本当は、あいつは……呪われているんだよ。本人は助けてるつもりが、なぜか逆に殺してしまう。死神に取り憑かれてるんだ、あいつは……だから、怜子も小泉の訪問を断った方がいい。それよりもさ、俺がお前の家で守って――』
「あっははははは!」
 堪えきれなくなって、爆笑した。
 部屋中の壁を振動させ、ベランダの外にまで響くような、腹の底からの笑い声だった。
 電話口から、戸惑ったような声がする。
『え、怜子、どうした?』
「そこまでわかってて、どうしてわからないんだろうねえ、君は。呪い? 死神? 逆に殺してしまう? あーおかしい、あはははは!」
 笑うことは、こんなに気持ちよかったのか。
 高坂の死と、失敗した仇討ち。そして馬鹿馬鹿しい電話。 
 この部屋にいる限り、こんな日はもう二度と来ないだろう。
 愉快になりながら、やっぱり今日しかないな、と思った。
「幸司はやっぱり馬鹿だね。自分の都合のいい方向にしか、物事を考えられない。だから高坂くんが自殺した本当の理由も、わからない。自分の個人情報がばらまかれていることにだって、気が付けやしないんだ。そんな君に、本当の現実を教えてあげるよ」
 窓は、開け放たれていた。
 カーテンが風に煽られて、膨らんでいる。もう時間も夕暮れで、うっすらと橙色の夕日が、室内に射し込んでいた。その光をさらに浴びるように、ベランダに出る。
 今日二度目の、賭けだった。
「人が死ぬ音って、聞いたことある?」
 ベランダの内壁は滑らかで、胸元ぐらいの高さだった。稼働している室外機を足掛かりにして、その狭い幅へとよじ登る。
 外気に晒された手すりに、足の裏がぺったりとくっついて冷たい。
「今から聞かせてあげるよ」
 すでに、電話からは音がしなくなっていた。
 それでも、衛星電話を握りしめたまま、ステンレスの手すりに直立する。
 鼻先には相変わらず、鳥避けのネットがあった。強風が吹く度に、前髪や額の吹き出物が擦れている。それが鬱陶しかったから、不安定な足場で背伸びをした。天井に取り付けられた、いくつかの金具に手を近付ける。
 そして、フックから糸を外した。
 白いネットが、ふわりと剥がれ落ちる。外との境界線が、風になびいて消える。
 そこには見渡す限りの、黄昏の世界があった。
 薄いベールのような雲の隙間から、幾筋もの温かい光が注いでいる。その日射しは遠くの高層ビルや、近くのマンション、眼下の街並みを柔らかく洗い、煌びやかな陰影をつけていく。やがて私の手元にも、白い光線が降りてきた。
 それはまるで、天上から垂れ下がった救いの糸のようでもあり、断ち切れて地獄に落とされるカンダタの糸のようでもあり、あるいはその両方かもしれなかった。
 高坂も、同じ光景を見ていたんだろうか。
 セピア色の眺望に浸りながら、そっと彼に思いを馳せる。
 このまま蜘蛛に搾取され続けるか、自殺をするか。この選択肢を突きつけられた彼の答えは、白線の外側へ踏み出すことだった。そして多大な犠牲を払うことによって、彼は彼自身の世界を変えることに成功した。
 だから私も、変わろうと思う。
 私だけの世界に、さよならをするために。
 この地点から一歩だけ前に進もうと、そう思った。
 それでも、玄関のドアを開けて、マンション内の白い廊下を経由して、普通に外に出て行くのは、とても怖いから。一瞬だけで済む、非日常的な方法を。彼と同じダイブをすることによって、その勇気を借りようと考えた。
 そして、そこから先は違う。高坂のように、自殺に逃げるわけではない。私の場合は、外の世界へ出るか、自殺に終わるか。その二つに一つだ。
 地上五階というのは、その賭けに相応しい高さだろう。
 私は落下点になる、マンションの入口を見下ろした。焦げ茶の石畳で窪んだその造りは、わずかに体を震わせた。
 恐怖心を打ち消すように、小さく息を吐き出した。
 そしてラジオから流れたあの曲を、頭の中で再生する。
 一つ一つのフレーズを反芻するように、呟く。

 新幹線 連絡船
 運命線よ教えて
 わたし 明日は
 どこでどうしてるの

「そうだよね」
 指先で、目元に溜まった水滴を拭う。
 思わず、微苦笑が漏れた。
「このままじゃ、明日も明後日も、ずっと部屋の中だって」
 そして、飛んだ。
 一瞬の跳躍。
 数秒後、なにかが砕けた音がした。 




















 漆黒だった。
 一面が、深い闇に塗り潰されている。
 わずかな光さえも見えない、完全に無音の空間。
 時折半透明な、バクテリアのような模様が通り過ぎていくだけ。
 それは薬を飲んだ直後に体験する、トリップのようにも感じられた。
 見飽きた、つまらない、ずっと変わらない視界。
 だから私は、瞼を開いた。
 目の前には、真っ赤に熟れた茜空。
 彼方には藍色が入り混じって、羊雲を鮮やかに染め上げている。
 緩慢な動作で、上半身を起こした。
 指先には、ざらざらとした石畳の感触。鼓膜には、空を飛んでいく飛行機のジェット音。
 そこは間違いなく、私が住んでいるマンションの入口だった。顔だけを動かして、たった今飛んだばかりの、自室を見上げる。
 五階の部屋、その外壁では。
 白いネットが破れて、風ではためいていた。
 それは私の部屋に設けられていた、鳥避けのネットだった。外し切れていなかったそれは、マンションの三階部分まで垂れ下がっている。
 網目が千切れているところから考えると、私が落下する時に、体のどこかが引っかかったんだろう。それは勢いを殺して、おかげで頭を割らないで済んだのかもしれない。
 もしくは近くに転がっている、衛星電話だった残骸。激しい音と共に叩きつけられただろうそれが、私の身代わりに砕け散ったのかもしれなかった。
 私は、ゆっくりと立ち上がった。
 左足首が、ずきずきと激しく痛む。着地をした時に、強く捻ってしまったのだろう。
 でもそれは手首の傷跡よりも、ずっと鮮明で苦しくて。同時に、まだ生きていることの証明にも感じられた。
 左足をかばいながら、もう一度そのネットを見つめた。
 空中を漂う、白い網。
 それはまるで、破れた蜘蛛の巣のようで。
 もしくは、身を包んでくれていた繭のようでもあって。
 胸の奥から、言いようのない感慨が湧き上がる。 
 助けてくれて、ありがとう。
 それを口に出すのは、とても恥ずかしかったから。
 すっかり乾いた目元を、もう一度だけ擦って。
 いつも通り、皮肉をこめて告白した。
「さよなら、薄命世代」



 そして、私は歩き出す。
 マンション前の、小さな道路を。
 人が混雑する、大通りを越えて。
 やがて夜が来る、夕暮れの街へと。
 赫焉とした、大空に向かって。
 一歩ずつ、歩いていく。
 旧式のラジオと、壊れた衛星電話を置き去りにして。
 ずっと繰り返してきた、変わらない毎日を捨てて。
 前だけを見つめて、振り返らずに。
 自分の脚で、歩いていく。
 左足が、鈍く痛い。だけど、もう片時も立ち止まっているつもりは、なかった。
 痛みや傷痕、弱さを抱えながらも、生きていく。
 羽ばたいた瞬間から、そう決めたのだから。
 だからこそ、私は歩いていく。
 沈みゆく夕日の、向こう側へ。
 昨日と同じ明日よりも、さらに先。
 まだ誰も見たことのない、明日へ。





           ―― 薄命世代 了



※相対性理論『スマトラ警備隊』の歌詞を一部引用しました


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