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作品名:薄命世代 作者:ゴーストライダー

第5回 第二幕 終着駅の話
 
 
   硝子
 
 
 気が付くと、自分の部屋ではなかった。
 寂れた駅。ホームの上に待機用として設けられた、白色のプラスチックシートに腰を掛けていた。
 駅全体を挟むように、白濁の空を背負った建物群が聳えていた。頭上には、波形のトタン屋根が伸びている。足下のコンクリートは所々が損壊し、灰のような砂塵と、ガラスの破片が散らばっていた。地面に打ち据えられた駅名表示板からは、文字が擦れて消えている。
 浮島のプラットホームの両脇を、錆びた線路が一本ずつ走っていた。駅構内には、それぞれの線路に向けて背中合わせに拵えられた、片面三席のプラスチックシートが、一定間隔で置かれている。
 一組離れたシートの傍には、一人の少年がいた。
 小柄な体格に、男子用の詰襟学生服を着込んでいる。その少年の姿は、少し距離があるせいか、陽炎のように揺らいで見えた。
 対岸のホームには、一人の男性が佇立していた。
 駅の構造は二面四線で、浮島が二つ並列している形だった。その男性の頭は丸刈りで、太縁の眼鏡をかけている。黒のスゥエット姿で、分厚い本を開きながら、駅構内の支柱にもたれ掛かっていた。
 不意に、賑やかな声が聞こえた。丸刈りの男性の背後にある階段から、家族連れが降りてきているところだった。まだ若いであろう父と母が、二人の娘がはしゃぐ様子に笑みを零している。 
 家族連れが出てきたのは、自分側と反対側のホームを繋ぐ、連絡通路の階段だった。線路の上空を跨ぐように、屋根付きの木造橋が架けられている。
 その連絡通路は、分断されていた。二つのホームの間に立ち並ぶ、電信柱の腕金から伸びた白い送電線が、通路の壁に突き刺さって、反対側まで貫いている。まるで有刺鉄線のようなそのロープは、大地に敷かれた線路に平行して、地平線の果てまで連なっていた。最後は空に溶けて、同化している。
 病的な寒空が俯瞰する、無機質な高層ビルが取り巻く、朽ち果てたプラットホーム。
 僕は、見覚えのない風景を眺めて、シートの背もたれに体を預けた。
 ひどく、厭な気分だった。


   透過


 乾燥した風が吹いていた。
 鉛色の暗雲に遮られて、光さえも射さない駅構内。
 気味の悪い冷ややかさに、思わず身震いがする。
 コートのポケットに手を差し込んで、モノトーンの空を見上げた。埃を含んだ空気を吸う度に、肺が軋むようだった。
 ふと、すぐ近くから音がした。
 硬い、金属的な音。
 右隣の、プラスチックシート。
 その座席の上には、小さな缶コーヒーが置かれていた。そのスチール缶を摘んでいる、白い嫋(たお)やかな指も。
耳の後ろから、声が聞こえる。
「ひさしぶりだね、小泉くん」
 吐息がかかるほどの距離。
 顔を右に向ける。そこには、僕の肩に顎を載せるような体勢で、静観怜子が微笑を浮かべていた。
 突然のことに、言葉を失う。すると静観は、背後のシートからすらりと立ち上がった。
「どう? 小泉くん。この制服、似合うでしょ。一度着てみたかったんだ」
 静観は、ブルーのジャージ姿ではなかった。
 黒で揃えたスーツにタイトスカート、バンプスを身に付けていた。ジャケットの胸元が大きく開いたデザインのため、白いブラウスの膨らみが強調される。
 静観はその場で、くるりとターンをした。艶やかな長髪が、ゆるやかになびく。
「私ね、会社員になったの。私の世界から外に出て、面接を受けたら、まさかの一発合格。小泉くんのおかげで、無事に社会復帰することができたよ」
 歌うような朗らかさで口ずさむ、静観。
 びしりと、なにかがひび割れた感覚がした。
「それにね、秋田くん。彼も今、公務員試験に向けて頑張っているんだよ。国家公務員になって、お金を稼いで、心と体に傷を負わせてしまった女の子達に、慰謝料を払って回るんだって。それが彼自身の、一生の贖罪なんだ」
 強烈な違和感を覚えていた。
 秋田はともかく、静観が会社に勤めているなんて、あり得ない。
 なぜなら、彼女は――
「それもこれも、小泉くんのおかげ。小泉くんが、鬱(ふさ)ぎ込んでいる私達の家に来訪して、カウンセリングをしてくれたからだよ。だから私達はみんな、小泉くんに感謝しているんだ。ありがとう、小泉くん」
 白々しさを臭わす態度と、皮肉がたっぷりとのった台詞に、胸が悪くなる。
 無言のまま座っていると、静観はなにを察した様子で、シートを迂回して、僕の正面まで歩いてきた。
 いつもの境界線を侵害して、静観は嗤う。
「ねえ、笑ってよ」
 静観の顔が、さらに接近する。酷薄な笑みを、湛えながら。
「嬉しいよね? 私達がみんな、社会に戻れて。手助けをしてくれた小泉くんのお手柄なんだから、すごく嬉しいはずだよね? だから喜んでよ、小泉くん」
 詰め寄る静観の顔からは、吹き出物が綺麗に取り払われていた。
 高校時代と変わらない、漆黒の瞳が射貫く。
「ねえ」
 自然と、目を伏せる。
 足下には、砕けたガラス片。
「私、知ってたよ」
 なにを、と聞き返す間もなく、静観は続けた。
「小泉くんが、私達を助ける気がなかったってこと」
 外気が、急速に冷え込んだ。
 真空になったように、周囲から物音が消える。
 僕は、深々と溜息をついた。それからゆっくりと、顔を上げる。
 静観は変わらず、眼前に佇んでいた。
 寒さを気にする素振りもなく、すらりと背筋を伸ばしたまま。返事を要求するように、ただ静観(せいかん)をしている。
 僕は、なにも答えなかった。
 静観自身も、僕の沈黙を予期していたのだろう。
 だから彼女は、冷笑を浮かべながら、抑揚のない声で宣告する。
「薄命世代なんて、存在しないんだよ」
 静観は、滑らかに後退した。バンプスの踵がコンクリートを叩く音が、駅構内に残響する。タイトスカートから覗くしなやかな太腿が、冷気のせいか白くなっていた。
「小泉くんさ、私達の家に訪問するたびに言ってたよね。私達がこうして世間から消えていくのは、薄命世代のせいだって。篠木高校卒業生に偶発的に与えられた受難、悲劇的な運命のせいだって。でもさ、そんなの嘘っぱちでしょ? そうやって架空の罪の対象を創ることによって、実体から目を逸らさせたかっただけなんだ」
 静観の両足は、不自然に白くなっていた。
 それは以前までの、閉じ籠もっていた時の生白さではない。血の気が一切感じられない、セラミックのマネキンを彷彿とさせた。
「そもそも薄命世代っていう言葉自体、私にとって眉唾ものだったよ。人生に行き詰まって、悩んで苦しんで到達した私だけの世界を、さも他の人と同じだ、薄命世代のせいだと一括りにされたんだから。統一する必要なんてない、同じ篠木高校を過ごしてきた小泉くんになら、わかるよね? 私達は、世代で生きてきたわけじゃない。いつだって、一人で生きているんだ」
 もはや脚部だけではなかった。静観の手、首、露出している肌が、次々と色素を失ってゆく。
 やがて静観の顔も、蝕まれるように白に塗り潰された。
「でもね、確かに私達には存在したんだよ。みんなを破滅へと追いやる、なにかが。それは薄命世代なんて抽象的なものじゃなくて、もっと明確な悪意。私達の世代には、例外があった」
 染色を終えた静観の全身からは、ぽつぽつと無数の小突起が発芽している。
 膨張した疣(いぼ)のようなそれは、先端が丸く溶け、液汁が滴り落ちていた。
「そいつはね、汚いんだ。自分が撒いた種なのに、薄命世代というスケープゴートを仕立て上げ、罪の意識を擦り付けて。さも自分は悪くないように振る舞うの。それどころか、落ちこぼれたみんなを拾ってあげている、救世主のような偽善面をしている。常に考えるのは、保身だけ。絶対に安全な場所から、自分が傷つくことを恐れて、他人を傷つけている。そいつのせいで、高坂くんも死んでしまったというのにね」
 静観の肌に繁殖している突起物が、その軟体を痙攣させ、さらに別の形へ変貌しようとしている。
「私達を食い物にするそいつを、許せないとは思わない? ねえ、小泉くん」
 僕は、理解した。目の前にいるのは、静観ではない。
 静観怜子の姿形を模倣した、別のなにかだ。


   透過 U


 彼女の体からは、細長いチューブがいくつも伸びて、空中を漂っていた。
「そもそも、初めからおかしかったんだよ」
 それは、突起物が生育した姿だった。
 まるで素肌を食い破って露出した毛細血管のようであり、皮下で蠢いていた線虫の群れのようでもあった。
「私が大学に行かなくなって、自分の部屋に閉じ籠もるようになってから一週間後ぐらいに、小泉くんは訪問したよね。わざわざ私の家まで来て、直接話がしたいって」
 線虫達は瞬く間に、肥大した芋虫のようになり、ついには白濁の触手と化した。
 体節の線が入った、蛇腹状の帯をくねらせて、不規則に伸縮を繰り返している。
「たいして仲も良くなかった小泉くんが、どうして私のところに来たの? 小泉くんってさ、高校の教室でいつも独りぼっちだったよね。孤立した席に座って、遠目に私のことをじっと見ていたよね。そんな小泉くんが、私が落ち込んでいることを誰よりも早く嗅ぎつけて、話がしたいって言い出すなんてさ。正直、不気味だったよ」
 僕は、冷めた目で見返していた。
 その視線に反応したのだろうか。彼女の周囲を浮遊している、巨大な触手。その内の何本かが、鎌首をもたげて近づいてくる。
「人間不信に陥っていた私は、当然拒み続けた。なのに小泉くんは、毎日執拗に通い続けて。私はさらに気分が悪くなったけど、お母さんはそんな小泉くんの姿に感激していたみたい。結局お母さんの説得のせいで、会話は扉越しという条件付きで、小泉くんを家の中に招き入れることにした。下らない心理カウンセラーの真似事をするようだったら、すぐに追い出すつもりだったけどね」
 ぬるりとした先端が、鼻先に触れた。
 僕はコートの懐に両手を入れたまま、無関心に眺める。
「小泉くんの話は、カウンセリングなんかじゃなかった。誰が人間関係を苦にして大学を中退したとか、誰がノイローゼにかかってマンションの屋上から飛び降りたとか。中高の同級生の近況に関する、暗い話題ばっかり。私には、小泉くんがどうしてこんなことを話すのか、わからなかった」
 頂点には、微かに切り込みが入っていた。
 その穴から絶え間なく、粘稠の白い液体が漏れ出している。フォンデュの噴水のようなそれは、頭部の傘の形に沿って、波紋状の模様のまま滴り落ちていく。 
「でも耳が慣れていく内に、一つの結論に至った。もしかすると小泉くんは、私のことを励まそうとしているのかもしれない。中学や高校の他の人達も、落ちぶれている。私だけじゃない、これは薄命世代のせいなんだ。だから心配しなくていい。そうやって、閉じ籠もっている私を安心させるために、外の世界のことを教えてくれるんだと考えるようになったの。それに他人の不幸の話は、実際に面白かったからね。昔から言うでしょ、蜜の味って。シャーデンフロイデっていう、人間には必ずある裏の感情なんだ。だから、私が自室の扉を開けるようになるまで、それほど時間はかからなかったはずだよ」
 目の前に迫っていた触手が、ぴたりと動きを止めた。
 涎を数滴垂らすと、徐々にその身を湾曲させて、先端が彼女へと戻っていく。
「私と小泉くんが顔を合わせて話すようになってから、数ヶ月が過ぎた。扉という隔たりを取り除いたのに、私達の関係は少しも変わらない。高坂くんが大学を中退したとか、秋田がレイプ事件を起こして退学になったとか。相変わらず同級生の躓きを、ただ写実的に口にするだけで、私を外の世界へ誘うような行動は、一切しなかった。私から少しだけ胸中を話しても、黙って聞いているだけで、なにも答えてくれない。私の期待はどんどんと萎んで、代わりに当初からの疑問が浮かび上がったの。小泉くんは何のために、私の家に訪問しているんだろう、って。そんな不毛な月日がずっと流れたある日、やっと私は理解した。ああ、この人は私達を助ける気なんて、これっぽっちもなかったんだなって」
 引き返した触手の群れは、そのまま彼女の肢体に襲いかかった。
 意志を持つかのように、素早い強靱な動きで喰らい付いていく。
「小泉くんの目的は、私達を助けようとすること自体にあった。その最もたる根拠が、あの同級生の不幸自慢。あれを聞かせていた本当の意味は、励ましなんかじゃなくって、その逆。鬱ぎ込んでいる私達に、現状のままでいることの安心感を植え付けたかったんだよ」
 凶暴性が伝播したように、漂うだけだった夥しいほどの細長い管も、静観の両手両足を捕縛していく。
 締め付けられた彼女の胴体が裂けて、白濁の水飛沫が上がった。
「ああ、他の連中も失敗しているんだ。それなら、少しぐらい停滞してもいいだろう。みんな似た境遇なら、自分もこのままで大丈夫だろう。そういった周りの堕落的な情報だけを、作為的に繰り返し伝えることで、負の連帯感を擦り込んでいたんだ。だからこそ、白い部屋から連れ出すためのアプローチをしなかった。ずっと落ちぶれた生活を続けて欲しかったから。その哀れな連中を、助けるふりをしたかったから」
 彼女の腕と脚が、端正な顔が、白のベールに覆い隠されて消えていく。
 漆黒の瞳だけが、依然変わらず見つめていた。
「神様にでもなったつもり? 小泉くんは、私達をずっと自閉という心の檻に監禁して、外からの情報を餌として与え続けてさ、まるで飼い主様の感覚だね。その情報だって、自分の身を削ったものじゃなくて、弱っている同級生から吐き出させた心の傷痕(トラウマ)じゃない。それを利用して、傷ついたばかりの相手に近づいて。新しい情報を手に入れたら、また次の標的を探す。そのループを、延々と繰り返してきたんだね。それなのにみんなを救っている、みんなから必要とされていると勘違いして――君はただ、偽りのヒロイズムに酔っているだけなんだ。自分より上を認められずに、下にいる人間を見て優越感に浸っている。自分より弱そうな人間しか、相手にできない。そんな卑しい、劣等感の塊なんだよ、小泉くんは」
 反論が、口を衝いて出そうになった。
 だが唇が接着されたかのように、開くことができない。手の甲で擦ると、デンプン糊のようなゲル状の膜が付着していた。
 僕の代わりに、彼女が喋っている。
 だから僕には、口を挟むことができない。返答を放棄した僕に、その権利はない。
「それにしても、二ノ宮先輩にまで訪問をしたのには驚いたよ。面識もない相手に、よく会いに行こうとしたね。小泉くんはそこまでして、自分よりも下の立場の人間を確保したかったんだね」
 僕は、向かい側のホームへと顔を向けた。
 そこにいたはずの賑やかな家族連れ。二ノ宮先輩と、妻と二人の娘。
 彼らは、影も形もなくなっていた。
「そういえば秋田は、首を鎖に付けられる前に、小泉くんの家からいなくなったんだっけ? なんとなく、このままじゃ不味いって考えたんだろうね。とてもいい判断だったと思うよ。でも、高坂くんは残念ながら違った。小泉くんの狡猾な罠に、嵌ってしまった」
 参考書を読み耽っていた坊主頭の秋田幸司も、どこにも見当たらなかった。
 その代わりに、僕と同じホームに立ち竦んでいる、小柄な少年が目に入った。
「同じ境遇に陥った私になら、わかる。どうしようもならなくなっていたんだ。無気力の渦の中に落とし込まれた高坂くんは、もう社会復帰する気力も失せていたし、それに輪を掛けて、小泉くんが言い触らした噂がある。なにかを切っ掛けに、知ってしまったんだろうね。みんなの陰鬱な現状を聞いて高坂くんが安堵しているのと同じように、自分の個人情報がみんなに暴露されているってことにさ」
 彼はさっきまで、篠木中高指定の詰襟学生服を着ていたはずだった。それがいつの間にか、ネイビーのダッフルコートに替わっている。
 両足は、白線の外側だった。
「大学一年生の夏前に、中退したこと。それからずっと、薄暗い部屋でひきこもり生活を送っていること。高坂くんにとっての心の暗部が、一番ナイーブな傷口がナイフで抉り取られて、晒し者にされていたんだ。それも最後に信用した相談相手に、裏切られてね。もう、元の世界に戻ることは絶望的だった。高坂くんがとるべき道は、二つしか残っていない。小泉くんに隷属したまま蟄居を継続するか、自ら人生の幕を閉じるか。結果、高坂くんは後者を選んだ。家族以外に干渉をされることのない、密葬を望んでね」
 コンクリートの淵で、彼は片足を持ち上げた。
 ダッフルコートの背中が、白い世界に霞んでいく。 
「無念だっただろうね。なにしろその自殺の話題さえも、こうして話の種にされているんだから。どうして死んだのか、なにが自殺の原因なのか。それが小泉くんによって、さらに広められると思ったから。だから高坂くんは、遺書を書かなかったんだよ。これが彼にできる、唯一の反抗だったんだ」
 そして高坂徹は、ホーム下へと姿を消した。
 僕には不思議と、彼の背中を押した、誰かの手の幻影が見えたような気がした。 
「みんなの希望の光を完全に剥ぎ取ってから、その命を摘んでいく。深い孤独と絶望の中で、高坂くんは死んでいったんだよ」
 二人きりになった駅構内に、彼女の声だけが浸透していく。
 僕はそっと、目線を戻した。触手達の饗宴は、すでに終わっていたようだった。
 そこにはただ、白い縄で隙間無く包装された、楕円状の塊が宙づりになっている。
「篠木高校卒業生の私達を取り巻く、死の連鎖。それは小泉くんに言わせれば、薄命世代のせいなんだよね。でも、私にはね、もっと違うものに見えるんだ」
 雁字搦めにされた、彼女の体躯。
 規則的なリズムを伴って、胸部だけが起伏している。
「もっと具体的で、もっと日常的な、なにか。私達の身近に潜む、ある生物の形態に、とてもよく似ていると思ったの」
 その姿は、なにかによく似ていると思った。
 まるで卵の中で呼吸を続ける、雛のようで。
 もしくは羽化を迎える前の、繭のようでもあって。
 その姿は、まるで、
「まるで蜘蛛の巣みたいだな、って」
 蜘蛛に捕らわれた、蝶のようだった。
「蜘蛛の食事方法って、知ってる? 獲物の身体に、口吻部にある毒牙を打ち込むの。全身を麻痺させてから、今度は齧り付いて、消化液をたっぷり注入する。体外消化っていう、胃の働きを体の外でするんだよ。そしてどろどろに溶けた獲物の体組織を、内側からずるずると吸い上げて。最後には中身が空っぽになった、獲物の外骨格だけが綺麗に残る」
 彼女を緊縛している、白い糸。
 それは、彼女自身を苗床にして発芽し、母体を蝕んでいたはずだった。
 だが、現実には違っていた。
「ねえ、そっくりじゃない?」
 天井から吊り下がっている、繭。その裏側から、一本の糸が未だに伸びている。
 それはホームの支柱やコンクリートを這い、ガラスの破片を吸収しながら、僕がいる座席に到達していた。すでに靴先から膝、胸、肩までよじ登っている。
 指先で触れて、さらに続きを辿っていく。
「張り巡らされた蜘蛛の巣のネットワークに、怪我をした私達が引っかかる。その振動に反応して、即座に蜘蛛が現れるんだ。私達に毒の情報を与えることによって、さらに弱らせていって。最後は、私達の頭の中から、引き籠もった理由を引きずり出して、栄養分として同化するの。お腹が膨れた蜘蛛は、また別の餌を探しに行く。中身を吸い取られた私達は、見た目こそ変わらないけれど、形骸化したまま生き延びさせられる。そしていつかは、蜘蛛の網から外れて、地面に落下するんだ」
 糸の終点は、僕の口蓋に繋がっていた。
 僕が吐き出した糸が、彼女自身を搦め捕っているかのように。
「やっと気が付いた?」
 蜘蛛は、僕自身だった。


   昨日


 いつしか彼女の体からは、白い糸がなくなっていた。
 空中を漂っていた数多の触手も、素肌に増殖をしていた軟体も、全てが幻だったかのように、掻き消えて。
 彼女は、さっきまでと同じように、凛として佇んでいた。
 僕が座るプラスチックシートから、わずかに離れた地点で。うっすらとした笑みを保ったまま、囁く。
「小泉くんはきっと、復讐をしたかったんだよね」
 だが、この場所に現れた時の彼女のように、黒いスーツではなかった。
 ブルーのジャージ姿。着古した衣服に、全身を包んでいた。
「かつてのクラスメート達に、嫉妬していたんだ。自分よりも楽しそうに、学校生活を謳歌しているみんなが、憎たらしかったんだ。だから卒業後に、みんなを見返せる方法を考え付いたんだよね」
 顔には万遍なく、赤い斑点が散りばめられている。長髪は艶を失って、所々が毛羽立っていた。手足は痩せ細り、骨の角が浮き出ている。
 それは紛れもなく、あの白い部屋に閉じ籠もっていた彼女自身だった。
「たしかに、計画は成功したのかもしれない。自分より下に落とせたから、自尊心が満たされたのかもしれない。だけどそんなことをしたって、無意味なんだ」
 彼女は僕から数歩だけ離れると、右手の人差し指を立てた。
 そのまま腕を、対岸のホームへと翳す。
「君自身は、自分の殻に閉じ籠もったままだから。昨日と同じ明日を、延々と繰り返しているだけだから。それじゃあ、ダメだよ。どれだけやったって、秋田や二ノ宮先輩のように、反対側のホームになんか行けやしない。あの送電線の向こう側へは、決して渡れないんだ」
 僕は、彼女が指差した先を見据えた。
 電柱から伸びた白い送電線が、二つの浮島を完全に分断している。
 その弛んだ太いロープは、さながら幾重にも張り巡らされた、蜘蛛の糸のようだった。
「君はずっと、この場所に留まるしかないんだ。ただ居心地がいいだけの、殺風景で寒々しい、孤独の終点に。この最果ての駅に、執着(しゅうちゃく)し続けるしか、ないんだよ」 
 いつの間に到着したのだろう。
 目の前の線路には、銀塗の電車が停まっていた。
 巨体の側面には、紫のラインが入っている。自動ドアは開ききって、橙色の照明が漏れていた。
 彼女はそれを確認すると、背中を向けた。誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫のように、危なげな足取りで近づいていく。
「それじゃあ、私はもう行くからさ。お別れに、これだけは言わせて」
 彼女はもう一度だけ振り返ると、少しだけ寂しそうな表情を覗かせた。
 それはまるで、最後に会った時の静観怜子と、瓜二つだった。
 静観怜子は、狡く呟いた。
「助けてくれて、ありがとう」

 そして彼女は、消失した。
 まるで初めから、存在しなかったかのように。
 さっきまでいたはずの場所には、小さなつむじ風が巻き上げて、砂礫が宙を舞っているだけだった。
 どうやっていなくなったのかは、わからない。
 電車に乗って次の駅に旅立ったのかもしれない。もしくは、ホームの下へ転落したのかもしれない。どちらにせよ、姿を眩ませてしまったことには、変わりはなかった。
 彼女がいなくなって。
 静観怜子の貌をした、自分自身が消え去って。
 そしてやっと、対峙する。
 自分自身と、向かい合う。
 ――羨ましかったんだ。
 心に、亀裂が奔る。 
 クラスの中心にいた、秋田幸司が。
 綺麗で人気者だった、静観怜子が。
 ただ虐げられていた、高坂徹か。
 なにもない自分にとっては、全てが憧れの的だった。
 机に伏して、寝たふりをしながら上目遣いで、教室内の様子を窺っていた、あの日。僕の瞳に映っていたのは、どんな色だっただろう。
 羨望の眼差しでは、なかっただろうか。
 被り続けていた仮面が、崩れ落ちていく。
 みんなの輪に入れない。友達を作るための行動が起こせない。自分が傷つくのが恐い。唯一話せるのは、自分よりも弱くて、危害を加えられることのない相手だけ。そんな考えだから、誰とも親しくなれない。スクールカーストから外れた、影の薄い、すぐに忘れられてしまうような存在。それが僕だった。
 別にそれでも構わないと思った。仲間なんて必要ないし、大声で喋っている集団をうざったいとも感じていた。群れることしかできない、一人ではなにもできない弱い連中だと、口には出さずに罵倒した。友達なんて、僕には必要なかった。
 胸の奥が、熱い。なにかが、喉を駆け上がっていく。
 でもそれは、嘘だ。
 本当は、誰かと繋がりが欲しかった。誰にも必要とされないから、誰かに必要として欲しかった。生きていく意味がただ、欲しかった。
 それはもしかすると生前の高坂や、静観が漏らしていた苦悩かもしれない。僕にとっても、同じ想いだった。
 だからこそ、僕はみんなを訪問することを決意した。
 必要とされない誰かを、誰もが心の支えとする共同体を。不幸を共有することによって、みんなが幸せになれる永久機関を、考え付いた。
 僕が眺めていただけの教室の光景は、無駄ではなかった。これは学校生活内のヒエラルキーを、ただトレースしただけなのだから。
 あの影絵の教室が、脳裏に去来する。
 クラスの強者が、弱者を虐げる。そのわかりやすい構図に、周りのその他大勢が、尻馬に乗る。自分に害が及ばないから、可笑しそうに騒ぎ立てる。真偽の怪しい弱者の噂話や陰口を、悪気もなく吹聴して、話のネタにする。
 誰だって、下には落ちたくない。虐められる立場に押しやられたくないから、誰かを虐める。誰だっていい。自分より下の人間がいることに、安心をしたいんだ。
 それと全く同じことだった。僕はそのヒエラルキー構造を、一番下にいる誰かを用意して、再現させただけだった。
 でも初めは、みんなを助けたいという一心からだった。純粋に、みんなを救いたいと思っていた。それは、本当だったはずだ。
 だけど、どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「どうして?」
 僕は、問いかけた。
 答えは、ない。
 息を止めて、顔を上げる。
 駅構内には、なにもなかった。僕の吐露は、誰にも届いていなかった。寒々しい、閑散とした一人きりのホームに、ただ残響するだけだった。
 自分を責めてくれた、僕の中の静観怜子はもういない。
 素肌にはびっしりと、冷たい汗の珠が浮かんでいた。湿気の不快感が全身を覆って、体温をさらに奪っていく。静寂が、鼓膜を劈く。心臓が途方もなく、凍りついていく。
 それはまるで、孤独の温度のようだった。
 ――目の前には、また電車が停まっている。
 スライド扉の開閉口を剥き出しにして。
 暖かそうな電球色の室内灯を、煌々と光らせている。
 僕はそれを、ぼんやりと眺めていた。
 しばらくそうしてから、おもむろに立ち上がる。
 この終着駅から、離れるために。
 僕自身も、外の世界に出発するために。
 電車に乗り込むために、両足に力を籠めて、動かした。
 いや、動かそうとした。
 でも実際には、僕は白いプラスチックシートに座ったままだった。一歩たりとも進んでいない。立ち上がってすら、いなかった。
 腰が、全身が、座席にぴったりと張りついたかのように、剥がれない。目を凝らすと、僕とシートのわずかな隙間には、粘着性の糸がいくつも引っ付いていた。
 自分を守るために拵えたはずの蜘蛛の糸は、今や自分自身を搦め捕っていた。
 両手で、顔を覆った。指の隙間から、冷たい水滴が零れていく。
 自分の知らない世界へ行くのが、堪らなく怖い。
 電車が走り去ってく音が木霊して、遂に聞こえなくなる。
 僕はもう、この世界で生きていくしか、ないんだろう。
 この荒涼とした、終着駅で。網に弱った餌がかかるのを、ひたすらに待ち続けるしか、ないんだ。
 ずっと、独りで。


           ―― 終着駅の話 了


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