過去において、わたしたち一族が人間にもたらしてきたこと。 それは伝説となって残っている。恐ろしく忌まわしい事実。わたしは命を落とした全ての人間たちの冥福を心から祈ろう。 わたしの名はランドル・ウェルボルン。人間の言葉で言うヴァンパイアだ。 もっとも、人間のヴァンパイア像とわたしたちは必ずしも一致しない。伝説が伝説に過ぎないこともまた多いのだ。 そもそも全てのヴァンパイアが、人間に危害を加えようと企むわけではない。 現にイギリスの夜を治めるトレヴィス・C・ケントドリックは、人間との共存の思想を掲げている。彼は命の糧を与えてくれる人間に対して、もっと敬意を払うべきだと考え、暴力と争いを好む同族たちと一線を画していた。 わたしの父ナイトもまた、人間に対して深く興味を持っていた。彼が人間とジョークを交わしたり、彼らの肩を親しげに叩いたりするのをわたしは見てきた。 トレヴィスの思想の表れる教育。父親という環境。そして何よりも、わたし自身が幼い頃、一ヶ月にわたって、わたしの正体を知る人間と暮らしたという事実。 わたしが仲間達の中で、もっとも人間に好意を持つ者になったとしても、不思議でも何でもないことだろう。 そう、わたしは人間を愛していた。彼らにまぎれて過ごす時間が好きだった。わたしは多くの人々から少しずつ血を分けてもらい、生きていた。 伝説のヴァンパイアに比べれば、ひどく軟弱に思えるかもしれない。 だが、わたしは満たされていた。本当に満足していた。
そして出会った、とある人間の女性。まさしく、これは運命だったのかもしれない。その時のことをわたしは鮮やかに思い出せる……。 その時、わたしはネズミの姿をしていた。ヴァンパイアとして初歩的なミスを犯したために。 聖夜にネズミに姿を変える……。 わたしはわたしたちの言う“ 呪い ”にかかり、元の姿に戻れなくなってしまったのだ。 わたしは父を頼った。父の血に頼り、開放の時、ハロウィンの夜を待とうと考えた。 だが、問題が起こった。父がイギリスを離れる任を負ったのだ。 『 とてもネズミであるお前を連れてゆくわけには行かない 』 それが父の見解だった。 ならば、どうするのか。誰にわたしを任せるのか。わたしたちは話し合い、そして、結論を得た。エリーゼの元へ身を寄せること……。彼女こそ、かつて少年だったわたしと一ヶ月に渡り暮らした人間だった。 わたしは彼女の姿を思い返した。懐かしい思い出が胸をよぎった。彼女との再会を考えると、いやがうえにも期待が高まった。 わたしは知らなかったのだ。時の流れの感覚が我々と人間とでは違うということを。 そして、わたしの父ナイトもまたそれを忘れていた。
八月の終わり、比較的涼しい風が吹いていた夜、ロンドンのダウンタウンにある旧いマンションから全ては始まった。 わたしは小さなバスケットに入れられていた。聞こえるのはわたしを運ぶ父の足音。感じるのはリズムある横揺れ。そして、時折見えるのは淡い裸電球の光だった。 天井の網目を通して差し込んでくるのだ。 ここがエリーゼのマンションだとすぐに分かった。匂いが、感覚が教えてくれた。ナイトがどこを通り、ドアへ向かっているのか容易に想像できた。だから、バスケットが床に置かれた時も驚きはしなかった。続いて聞こえるノックの音。 だが、返事はない。人の気配もない。人の残り香だけが香る。エリーゼは留守のようだった。 バスケットの天井が開けられる。巨人のような父が座り込んでわたしを見下ろしていた。 「 さて、どうしたものかな。飛行機の出発まで時間がない 」 腕時計を見、それからわたしにそれを示して見せた。針は九時四十分を指していた。空港までの時間を差し引けば、ぎりぎりといったところだ。 彼は数秒しかめ面をして考え込んだ後、おもむろに立ち上がった。ポケットから手帳を取り出し、一ページ引きちぎる。ドアを机代わりに何かを書き始めた。その素早さと角度の悪さが災いして、わたしには何を書いてあるのかまるで分からなかった。 メモをわたしに被せる。いまいましくかさかさ音を立てるそれから顔をのぞかせた時、見えたのは父の後ろ姿だった。 『 親父! 』 わたしはいくら経ってもなじめないネズミの声で呼びかけた。父は立ち止まり、振り返ってからにっこりと笑った。 「 エリーゼを待つんだランドル。きっとすぐに彼女は帰ってくる 」 そうして、再び背を向けて、彼は歩き出した。 わたしはバスケットの縁にかけた手を下ろし、ふてくされるしかなかった。足音は遠ざかっていく。エレベーターのベルが鳴ったのと、父の足音が止んだのは同時だった。 「 失礼 」と父の声。 「 あっ、すみません 」 若い女性の声。 エレベーターの扉が閉まった。モーター音と重なって足音が近づいてくる。柔らかい足音だ。どんな隣人だろう。わたしは興味をひかれた。 足音はまっすぐこちらへ向かってくる。 わたしの入っているバスケットが彼女を引きつけたのだろうか。女性はバスケットの脇で止まった。中を覗き込み、そしてわたしと目が合った。彼女はギョッとして、一歩後退りした。そして、あらためてわたしを見つめる。 わたしも彼女を見ていた。パステルカラーのキッチリとしたスーツ。薄い化粧。見事に編みこまれた髪。表情の硬さが彼女を余計に神経質そうに見せていた。 腰を落とした彼女の服や髪からはうっすらと酒の匂いがした。そして、多くの人間の匂いも。もっともそれは染みてしまった匂いに過ぎなかった。彼女自身からは何の匂いもしない。 わたしの横にあるメモを取ろうと、彼女が手を伸ばしてきたとき、そう気づいた。指がわたしの体に触れそうになる。温かく血に満ちたそれをわたしはうっとりと見つめた。 もし、自制をきかせていなければ、その手首に咬みついていたかもしれない。 彼女はメモを読み流した。透ける文字から内容を読み取ろうとしたが、無駄だった。それより早くメモはポケットにしまわれた。 「 まったく友達が多いっていうのも考え物よね 」 エレベーターを振り返り、溜め息混じりに彼女は言った。 わたしはようやく落ち着きを取り戻した。彼女がわたしを部屋に入れる気だということに気づいたからだ。バスケットは持ち上げられ、ドアは開かれた。 わたしはかつてエリーゼと過ごした部屋に再び足を踏み入れることになった。そこはわずかに過去の面影が残っていた。それを目の端に捕らえ、わたしはこれからのことを不安のうちに考えた。わたしはこれからどうなるのだろう。わたしはこれからどうすればいいのだろう。 横にいる彼女を見上げ、わたしは困惑するばかりだった。
かくして、わたしと彼女との生活が始まった。 わたしの不安は的中した。彼女がこの部屋の主だった。エリーゼはいなかった。 そして、わたしの正体を彼女は知らなかった。これは憶測であるが、間違いはないだろう。彼女はわたしにチーズやパンを与えようとしたのだから。 そして、わたしを「 ランディ 」と親しみをこめて呼ぶのだ。それはエリーゼが少年だったわたしに付けた愛称だった。 いったい父はどんなメモを残したのだろう。わたしは首をひねった。 少ない時間の中で書き残したことが幸いしたには違いないのだが。余る時間の中で書いたものなら、それはわたしを危険にさらすことになっただろう。 とにかく彼女はわたしに優しく接してくれた。陽光を遮るには十分な、布の覆いのついたダンボールの巣箱を与えてくれた。わたしは昼間その中で眠りについた。彼女がそれを邪魔することは決してなかった。仕事が休みらしい時でさえ。わたしが目を覚ますのを待っていてくれた。 彼女はいつも追い詰められた獣のようだった。張り詰めていた。夕方、仕事から返ってきた彼女は、見ていてかわいそうなほどだった。部屋のドアを閉めて、やっと彼女は開放されるのだ。 ふっと息をつき、きっちりと結い上げた髪をすぐさまほどく。肩を覆う髪が彼女の頬を縁取る。窓のそばの椅子に座った彼女を、太陽の名残が温かく包むのを何度も見た。淡い光にもかかわらず、ひりひりと痛む目も気にならなかった。 オレンジに近い赤い光の中で、金色に縁取られながら波打つようなラインを描く髪。そして彼女は、わたしの視線に気づき、振り返るのだ。 わたしはその瞬間を愛した。部屋に入ってきたときの彼女とはまるで別人だ。古く美しいポートレートのようだった。 どうして、こんな美しい髪を編みこんでしまうのだろう。わたしは疑問に思い、残念に思った。 次第に彼女に惹きつけられていくのを感じた。柔らかくウエーブした栗色の髪。紅茶の色そっくりな瞳。東洋の血が混じっているのではないかと思うようなきめ細かい白い肌。そして、彼女の笑顔ときたら。 わたしはそれを見るためにおどけて見せるのだ。チーズをおもちゃ代わりに振り回したリ、彼女の腕をよじ登ったり、豊かな髪に鼻先をもぐらせたり。思いつく限りのことをやってみた。 彼女はそのたび、わたしの頭を指でなでながら、くすくす笑うのだ。 「 いたずら好きのランディ 」……と。 それはわたしが小さな体に閉じ込められているということを忘れさせてくれる瞬間だった。わたしがヴァンパイアであることも。 だが、それは一時的な忘却でしかなかった。 わたしは狩人だった。常に血に飢えた存在だった。わたしは彼女が眠りについた夜中、巣箱を抜け出すのだ。ネズミらしく台所の隅に潜り込むのだ。そこにはわたしの仲間たちがいた。毛むくじゃらの犠牲者達が。わたしは素早く飛びかかり血を奪うのだった。 もちろん好みの味などではなかった。わたしが常に欲するのは人間の血だった。それでも眠っている彼女を襲うなどできるわけがなかった。彼女の安らかな寝息を聞いていると安らいだ。少女のような寝顔は保護欲をかき立てた。 わたしは彼女を守りたかった。彼女を苦しめる全てのものから。しかし、わたしはネズミでしかなかった。悪夢にうなされ、泣きながら飛び起きる彼女を見ているだけだった。彼女にとってわたしはペット……守るべきものなのだ。 わたしは無力だった。それを思い知らされた。 ある晩のことだ。わたしは床の上で小さなボールに戯れて遊んでいた。彼女がわたしへとボールを転がし、わたしがそれに飛びつくという形だ。 音がした。聞きなれない耳障りな音だ。 わたしは首をめぐらせ、発信源を見やる。それは電話だった。彼女の部屋に住み始めてから、初めて耳にした呼び出し音。彼女は慌てて受話器をとった。まるでそれが逃げてゆくものかのように。 呼び出し音が途切れる。 「 はい、もしもし…… 」 受話器から声が漏れてくる。低い……男の声だ。 「 ええ、娘のフィリアです 」 わたしはこの時、初めて彼女の名前を知った。彼女と出会ってから三週間は過ぎた、この時初めて。 改めてフィリアを見上げる。彼女はかすかに震えているようだった。 「 でも、そんな……私には…… 」 相手はひどく怒鳴り散らしている。わたしにも言葉が聞き取れるほどだ。柄の悪い脅しつけるような言葉。フィリアの体が凍りついたかのように動かなくなった。男が声高く罵ったのだ。 そうして電話は切れた。 フィリアは大仕事のように受話器を戻し、その場に座り込んだ。 彼女の顔は色を失い、瞳には霞がかかったようだった。わたしはすぐさま傍へ駆け寄った。彼女を力づけようとした。笑顔を取り戻させようとした。 無駄だった。 わたしの声はネズミの声でしかなかった。彼女はわたしを見ようとはしなかった。わたしはただ彼女が泣き出すのを見ているしかなかった。床に手をつき、髪が流れるままにしている彼女を……。 わたしはちっぽけなネズミでしかなかった。 彼女がその日、わたしを振り返ることはなかった。ベッドの中で激しく泣き続けていた。 疲れ果て、自然な眠りが彼女を誘うまでそれは終わらなかった。 まったく情けない気分だった。わたしは元の姿に戻りたかった。彼女を慰め、抱きしめることができたなら……。 わたしは苛立ちを覚えた。ハロウィンを迎えるまでこの姿のままなのだ。一ヶ月以上も先のことだ。それまでわたしにできることといえば、祈ることだけだった。 “ 彼女を悲しませることが起きませんように…… ” わたしは空腹に身を任せた。ネズミたちにしてみれば、恐怖の一夜だったに違いない。その時のわたしは、このマンション全てのネズミを食い尽くす勢いだったのだから。
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